第35回1000字小説バトル Entry35
蝶に咬まれた事がある。
その時私は永遠の真昼に倦んで居る子供だった。薔薇の葉の上に真夏の闇のような青色の羽を伸ばす蝶を、私はさしたる理由もなく払いのけたのだ。その時、蝶が指を咬んだ。
どうも茫洋とした記憶であり、夢であったようにさえ思うが、青い鱗粉のついた指に蝶から受けた傷を見たときの一種のやるせなさは忘れられない。私は家に帰って母に泣きついた。そして世界の秘密を垣間見てしまった子供がいつもそうするように、そんなにも怯えた理由を誰にも話せないでいた。
長じて私はヘミングウェイの小説を読む。そしてあらかた内容を忘れてしまうのだが、一つだけ忘れられない逸話がある。魚に付いてのものだ。釣り人が魚に触れると、そこだけ魚の鱗の表面を覆った粘液がとれてしまう。そして黴が生え、魚はそれが原因で死んでしまう。
私にとってのヘミングウェイは、耳の側でこれを囁き続ける静かな語り部だ。私は時折この逸話を思い出し、そして蝶とさかなの夢を見る。
私は黴の生えた魚と鱗粉のとれた蝶の夢を見る。多分あの日の蝶はヘミングウェイの魚の様に、触れられ鱗粉を落とされて、そして死んでしまったのだ。私は誰も知らない蝶の死について悼み怯える事に間もなく慣れてしまい、夜毎の夢は私の一部となって行った。
時は過ぎ、私は蝶の咬み傷を持ったまま大人になる。金と緑の色彩が世界中を荒振り吹く夏がやって来ており、私はその降る黄金の中、初めて恋人に蝶の記憶を語った。
「あの蝶は死んだのかな」
黙り込み、彼女は蝶でも千切る様に薔薇の葉を千切って居た。けれどやがて伏せた目を上げて挑む様に言ったのだ。
「誰かが自分の障壁を破って領域を侵犯してくることを恐れるべきじゃないわ」
「え?」
「だって、恋ってそういうものでしょう」
六月の真ん中に立って私を見上げる彼女の目は哀しみに溢れていた。そして私はやっと気が付く。私が恐れていたのは鱗粉をとってしまう事ではなく、自分の鱗粉をとられることだったのだ。あの日触れられたことに過剰反応して咬んだ蝶は自分で、誰かに触れられただけで死んでしまう魚は自分だったのだ。
私は彼女の頬に触れた。そして戻した指先には鱗粉が付いていたから、あなたは私を噛みたいだろうかと聞いてみた。
その夜、私は黴の生えた部分から蝶の羽が生えて飛翔する魚の夢を見た。
夢の外には夏があり、私達はその中で、互いの鱗粉にまみれて眠っていた。