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第35回1000字小説バトル Entry36

雨音

 雨が降っている。
 夜半である。眠れずに寝返りをうつ。
 
 以前、読んだ本のことを思い出した。ある禅僧が弟子に問う。外ではどんな音がする? 弟子が答えて言う。雨の音がします、と。師は穏やかに首を振る。さかしまである、自分を迷わせておる、と笑う。首をかしげる弟子に向かい、禅僧は言った。この私こそ雨の音である、と。
 
 この本によると、禅の真理とは、すべての存在と自分が一体である事を悟る事だそうだ。そこで、蒲団の中で耳を澄まして、自分が雨の音になったと想像してみた。が、二、三分ほどで飽きた。坊主の真似をしても、自分は到底、悟りの境地に到達することができない。雨はただの雨にすぎず、自分はやはり自分である。
 
 単調な連続音は、いつ果てるともなく続いている。
 再び寝返りをうった。やはり眠れない。
 
 昔好きだった女の事を考えた。しかし、どうしても顔が思い出せない。たしか、色の白い、面長の、やさしい眼をした女だったような気がする。それ以上の事は、記憶にない。別れたのは七年も前の事だ。
 
 この女は嫁に行った。自分は最近、風の便りにそれを知った。
 
 自分は彼女の幸福を願った。そして、二度と会うことはあるまい、と思った。自分は彼女の顔を憶えていない。彼女も自分の事など、とうの昔に忘れてしまっているだろう。いまや、自分と彼女を結びつけるものは何一つ存在しない。写真一枚さえない。
 
 彼女も今頃、蒲団の中でこの雨音を聞いているのだろうか。ふと、そんな事を思った。

 もう一度、窓の外に耳を傾ける。駄目だ。やはり自分は雨の音にはなれない。そして、女の顔も思い出せない。
 
 雨音を聞いているうちに、いつしか自分はまどろみ、夢の中にいた。夢の中の自分は、薄暗い路地で誰かを待っている。朧気な街灯の光が、無表情な自分の顔を照らし出す。
 黒い喪服の男が自分の側に歩いてくる。見覚えのない顔である。男は立ち止まり、冷たい笑みを浮かべながら自分に声をかけた。
「お前、まだ生きているのか」
 
 そこで目が覚めた。全身が汗で濡れている。嫌な夢を見たと思った。
 外では依然、雨が降っている。自分は頭から蒲団をかぶり、両手で耳を覆った。

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