第35回1000字小説バトル Entry44
馬喰町の駅の後ろのホームから先へ続くトンネルは右へゆっくりカーブしていて、ずっと奥まで壁面を照らす電燈が続いている。そういえばありそうでない風景だ。だからといってその先に何か特別なものがあるなんて考えにくい。この先で線路は両国のちょっと手前で地上に出て錦糸町の駅で停まる。大学を出て四年、新小岩から品川の会社に通い続けて知っていることじゃないか。
「空はこの先にあるのよ」
そう言ってさっき、スズミは駅員の目を盗んで線路に降りた。不測の事態が僕の時間を止めた。電車が来たら危ない、当たり前だけど重要な常識が頭を駆け巡る前に、不思議と僕は非現実なスズミの言葉に捕われていた。本当にこの先に空はあるんだろうか?
確かに地上には出るけど、空に続いてるわけじゃない。良く知っていることだ。でも一抹の疑念が胸をよぎる。じゃあ、何かを導くように続くトンネルの壁面の電燈に僕はこれまで気付いたことがあっただろうか?
「あら、来てくれたの?本当は待ってたんだ」
気が付くと線路を走っていた。それに気が付いたスズミが振り返って笑いかける。また一つ、僕の知らない彼女の笑顔に怒る気も失せる。いや、それは言い訳かもしれない。だって僕はもうここに、空へと続くトンネルの中にいるのだから。
「さあ、走るぜ」
「大丈夫だって」
「早く空が見たいだろ?」
スズミは小さく「うん」と頷いて僕の手を握った。僕たちは走った。
緩やかなカーブが続く、緩やかな坂を走る。目の前がだんだん明るくなってくる。
そして、そこには空があった。
ぽっかりと開いたトンネルの出口、闇の向こうには空があった。送電線が少し邪魔だったけど、でも空だった。他には何もなかった。
トンネルを抜けてしまってからは、そこはもういつもと同じ街で、僕たちは何もなかったかのように柵を越えて道に出た。目の前にオシャレな喫茶店があったけど、五百円もだして飲むコーヒーに何の魅力もわかなくて、少し先にあった自動販売機でジュースを二本買った。路地の先の小さな公園、誰もいないブランコに二人で並んで腰掛けた。暑い日射しの中で持った缶ジュースの冷たさが気持ち良い。
「ねっ、知らなかったでしょ?」
「四年も通った道なのにな」
僕は答えた。知らないことがたくさんたくさんある。トンネルの先の空も、缶ジュースの美味しさも、こんなところに公園があったことだって。そんな謎が一つ一つ、今日も溶けていく。