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第38回1000字小説バトル Entry10

神様の憂鬱

 横光利一は憂鬱だった。
 眼前の検事は眼を怒らせ、顔を赤くして、さっきから同じ事を繰り返し喚いてい る。彼の小説『日輪』が皇室を冒涜しているというのだ。
「冒涜、ですか」
 横光は皮肉な笑みを浮かべた。『日輪』は邪馬台国の女王卑弥呼を主人公にした歴 史小説である。無知な検察は、卑弥呼と、天皇家の先祖とされる天照大神を混同し、 彼を不敬罪で告訴しようとしていた。
「私は卑弥呼が天照大神だなんて、書いてませんよ」 
 横光は、『魏志倭人伝』や和辻哲郎の『日本古代文化』について滔々と論じ、卑弥 呼と天照大神が別人である事を根気よく説明した。
「もし、こんな事で私を告発したら、逆に当局の方が不敬罪に問われます」
 この一言で、検事は沈黙した。横光は無罪放免となった。
 
 釈放されたその足で、横光は神田の古本街へ向かった。
 古本にとって、強い西日は大敵だ。そのため、この街の本屋は皆、夕日を避けて道 路の片側に集中している。その通りを歩きながら、横光は溜息を吐いた。
(あの頃が懐かしい)
 貧窮時代、彼はここで朝から晩まで歩き回っては立ち読みし、本をノートに写して 勉強したのである。飯は一日一食、おかずはキンピラごぼうのみだった。
 苦しい毎日だった。それでも彼には夢があった。作家になりたい、その想いだけが 彼を支えてきた。 
 夢は成就した。今や横光は文壇の寵児であり、「小説の神様」と呼ばれるまでにな った。
 だが、横光の顔には深い憂愁があった。作家としての成功と引き替えに、言いよう のない疲労と倦怠が彼の肩に重くのしかかっていた。
(男は夢があるうちが華だな)
 心中に秘められた孤独は、彼自身の手にも余るものであった。
 
 その夜、横光は先輩の菊池寛の家に招かれ、夕食を馳走になった。
「いやぁ、何はともあれ、無事で良かった」
 そう言って、菊池は横光のために杯を上げた。
「ご心配をおかけしました」
 横光にとって、菊池は大恩人である。『日輪』が雑誌に掲載され、横光が作家とし ての一歩を踏み出す事が出来たのも、すべて菊池の尽力によるものだった。
「ところで例の『日輪』だがね」
 談笑の中、菊池が言う。
「僕はやっぱり『天照大神』という題名の方が良かったと思うけど」
 横光は寂しげな笑みを浮かべ、ただ頷くしかなかった。

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