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第38回1000字小説バトル Entry9

夜明けのキリン

 あの頃、たぶん私はとても疲れていた。私自身を取り巻く全ての事に。

 キッカケは些細な夫婦喧嘩だった。なのにお互いの不満を口にし始めたら、心の奥 底に無理矢理押し込んでおいた不満やら愚痴やらが、まるで堤防が決壊したように一 気に溢れ出して大洪水になってしまった。
 結婚してからの家事と仕事の両立は思っていたよりもずっと大変で、私の労力と時 間を否応無しに食いつぶしていく。会う人会う人が「赤ちゃんはまだ?」とまるで挨 拶代わりのように私に問う。余計なお世話だ。
 仕事で足を引っ張るのは、無能な男と楽をしたい女。私は知っている。彼等が影で 私の事を「お局様」と呼んで笑っている事を。
 強気の暴言を吐き飛び出して来たけれど、行き先なんて無かった。実家は遠過ぎて 簡単には帰れないし、ひとりで繁華街を出歩くのも億劫だ。こういう大事な時に限っ て、数少ない友人達も不在だったりする。
 私はしばらく深夜営業のファミレスで時間を潰した後、結局そのまま車で都内の仕 事場に向かった。机の上には溜まった仕事が山積みになっている。ちょうどいい。朝 まで仕事をしながら時間を潰そうと思い、誰もいない職場のドアを開けた。
 クーラーの電源を入れて書類に目を通しながら、途中買って来た冷たい缶コーヒー を飲み干す。味なんてわからない。ただ、乾いてカラカラになった体と心に何か水分 を補給しただけの事だ。
 結局たいしてはかどらないまま時間は過ぎ、やがて東の空の縁がうっすらと明るみ 始めた。私は窓際に立ち、刻々と変わりゆく景色を見つめる。窓から見えるたくさん の工場のネオンが美しい朝の光に溶けていく。
「あ……キリン……!?」
 その時、私は見つけたのだ。金色に輝く朝日をバックに悠然と立ち並ぶキリンの姿 を。
 それは工業地帯に並ぶ鉄骨で出来た高いクレーンだった。クレーンの上方部分を少 し斜めに起こしたそのシルエットは、動物園でしか見た事の無いキリンの姿を見事に 模倣していた。都会のサバンナに佇む巨大なキリンは神々しくさえあり、私はなんだ か自分がすごくちっぽけな存在のように思えて小さく笑った。
 朝焼けが空をうす紅色に染め上げて、やがて世の中は目を覚ます。その頃には、こ のキリン達も姿を消すだろう。夜が明けるほんの一瞬だけの夜明けのキリン。

 その時、机の上に置かれた携帯が鳴った。私は着信を見なくても、それが誰からか かってきた電話なのかハッキリとわかっていた。

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