≪表紙へ

1000字小説バトル

≪1000字小説バトル表紙へ

1000字小説バトルstage4
第84回バトル 作品

参加作品一覧

(2024年 12月)
文字数
1
おんど
1000
2
サヌキマオ
1000
3
ごんぱち
1000
4
アレシア・モード
1000
5
ChatGPT
1382
6
木田周二
1818

結果発表

投票結果の発表中です。

※投票の受付は終了しました。

  • QBOOKSでは原則的に作品に校正を加えません。明らかな誤字などが見つかりましても、そのまま掲載しています。ご了承ください。
  • 修正、公開停止依頼など

    QBOOKSインフォデスクのページよりご連絡ください。

長編小説(途中まで)
おんど

梶原さんが勤める市立図書館の特別整理期間で大幅な図書の入れ替えが行われ、特に閉架書庫に収められていた雑誌類が大量に処分されてしまったという話を国道沿いのラヴホテルのベッドで聞いた。処分が決まった雑誌は図書館の蔵書印などをサンドペーパーで丁寧に消し、ネット古書店に横流しすることにより臨時収入を得ることができるため、日頃からワンオペレーションで9時〜21時の業務を回している梶原さんにとってはストレス解消にもなるし廃棄リストと廃棄資料を照合する文化政策課の職員のみるみる曇っていく表情をスマホで隠し撮りしてSNSで炎上させてささやかな心のぬくもりを得ることもオプションとしてあるのだから特別整理期間の梶原さんはご機嫌である。
いつものようにゆっくり回転するベッドの上で突き出された白くて広大な梶原さんの尻を指でなぞりびくんと動いた瞬間を逃さず「まひるまの」と指を動かす。梶原さんのただれた肛門がきゅっと締まるのを見逃さず「雪のにおいは遠い」と続ける。ぴったり閉じていた大陰唇が開いて愛液の仄かな香りが漂い「シャワー室のタイル」となぞる。枕に顔を埋めていた梶原さんが日頃のワンオペレーション業務で凝り固まった首の可動域を最大限ひろげてこちらを振り返る。
「それって千種創一の『まだ雪の匂いはとおい。まひるまのシャワー室にはタイルが剥がれ』なんじゃないの。小賢しい」と鼻で笑った。
二句切れの句点が「とおい」の余韻を残しているつもりなんだろうけど、現代口語短歌風の「やってる感」が鼻につくと梶原さんは乾いた声で言うのだった。国道沿いのラヴホテルの浴室のタイルは所々剥げかかってカビで黒ずんでいる。ゆっくり湯船で温まると勃ちが悪くなるからシャワーで済ませてしまうのだが、本日は11月15日、いやらしい意味ではなく乳首が立ってしまうほど肌寒いのだった。
「あの三十一音量感の底をながれてゐる濡れた湿つぽいでれでれした詠嘆調、さういふ閉塞された韻律に対するあたらしい世代の感性的な抵抗がなぜもっと紙背に徹して感じられないか」と小野十三郎が「八雲」1948年1月号で述べた「奴隷の韻律」そのものではないかと梶原さんは憤る。憤るほどに濡れていくのは仕方のないことで、そこを泥濘化していく私の務めもまたでれでれした奴隷の韻律であると指弾されたようで萎みかかっていたものが矢庭に勃ちやがる。今回の特別整理期間で閉架書庫の「八雲」はすべて廃棄さ
長編小説(途中まで) おんど

サヴァノヴォーズ師
サヌキマオ

 サヴァノヴォーズ師は高校でも謹厳実直な倫理の教師として有名であったが、六十歳の退官を前にして結婚することとなった。お相手は同僚でも卒業生でもなく、学校最寄りの駅前のパン屋のおばちゃんだという。ここにいたるまでにどういう経緯があったかは明らかでないが、学校の同僚にして師の教え子である数学のカキノハヅ師は恩師の一世一代のこととて奮い立った。とはいえ、愚直にも一教師であり続けた師の性分を鑑みれば、話を盛り上げれば盛り上げるほど本人の意に染まぬことも重々承知していた。さてどうしたものか。
 どうもしない、というのが一番理にかなっているうえに波風の立たないには違いないのだが、なにも祝わないというのもばつが悪い。サヴァノヴォーズ氏に負けず劣らずのクソ真面目であるカキノハヅ師のことであるから、苦慮の果て、率直に本人に聞くしか無いということになった。カキノハヅ師の申し出を前に、師は「予定を狂わせるわけにはいかないので、帰り道であれば」と歩きながらカキノハヅ師の直談判を受けることになった。
「しかし変なものだね」サヴァノヴォーズ師は、別に自虐ではないが、と前提したうえで、
「勝手にくっついたことを祝われるというのが、いまひとつよくわからんのです」と云った。
「それは先生、人と人が好きあって結ばれるというのは、おめでたいことではないのですか」
「おめでたいだろうか」師は言葉を切った「何にせよ気持ちだけはありがたく頂戴するのでこれ以上は勘弁してくれまいか。子どもができるわけでなし」
「そんなのわかりませんよ」カキノハヅ師はニヤリとした。緊張で笑わずにはいられなかったのだ。「これから先、できるとか、できないとか」
 夜七時ちょうどには新妻の待つ家の玄関にたどり着いていなければならないのだそうだ。妻は朝が早いからね、とサヴァノヴォーズ師はなんでもないふうに云う。
 結局カキノハヅ師はサヴァノヴォーズ師を祝わなかった。学校の同僚にも伝えなかったので、特に話題にもならなかった。

 それから一年、上級生を中心に「駅前のパン屋でサヴァノヴォーズ師が働いている」という噂が巻き起こった。当然だ。学校最寄りの駅前のパン屋で元教員が働いていたら話題になるに決まっている。
 師は変わらず謹厳実直、教え子が来ても表情ひとつ変えずにパンを売っているという。その様子がありありと想像できるので、カキノハヅ師はまだパン屋に行っていない。
サヴァノヴォーズ師 サヌキマオ

安楽死のある風景
ごんぱち

「あら近藤さんところの。今日もお出かけ? どちらに」
「はい、谷原さん……母のところに」
「仲がよろしいのね。それお土産?」
「そうです」
「ふうん、お母様、お料理なさらないの?」
「あ、いや、しますよ? でも、俺の料理も気に入ってくれてるので、凄く」
「なかなか大変じゃあないの?」
「全然、全然。むしろ、俺が料理を味見してもらってるんです。じゃあ!」

「――母さん、来たよ。食べた? ああ、またご飯だけ食べて。おかずもちゃんと食べてね、色々栄養バランス考えて作ったんだから。混ぜご飯にでもしようかな……この食器洗うね……大丈夫だよ、茶碗が当たった音だから。ふふっ、おいしい? ゆっくり食べ……ほらむせた、一旦止めて、咳収まるまで待って。俺、食器洗ったら戻るから、ゆっくり、よく噛んでね? これ、食器洗い機あると良いか……いや、まあ無理か……よし、終わった。掃除するよ、母さん」

「――やっと終わった。トイレの壁はペーパーじゃないよ。って言っても無理か。お母さん――寝るの? うん、じゃあまた日曜に来るから、介護官さんに迷惑かけないようにね?」

「近藤さん、お帰りなさい、お疲れさま」
「ああ、谷原さん」
「偉いわね、こんなに遅くまで。本当、親孝行、見習いたいぐらいだわ」
「いやぁ」
「でも、一番大事なのは自分の身体だからね。困った事があったらいつでも言って? 色々助言してあげられると思うから」
「疲れてませんよ、話が長いぐらいで」

「……ただいま」
「どうした、急に家を飛び出して」
「近藤さんとこのダンナ、また母親んとこ行ってたみたいだからさ」
「ああ、それか」
「まだ音を上げないわ、しぶといったら」
「……悪趣味だな、やめとけよ」
「おかしいでしょう。介護の必要な親をハピエンさせないなんて! 老人1人のせいで、どれだけ社会保障費が浪費されるか分かってんのかしら!」
「家ぞれぞれだよ」
「なに? ひょっとしてあなた、私があなたの親を殺せって言ったの、嫌だったの!?」
「そんな事ないし、殺したなんて言うなよ。きちんと意思確認の上のハピエンだろ。サインも本人の手で書かせたし」
「ママ友連中もみんな言ってる事よ。まともな正義感があれば、ハッピーエンドさせるべきだわ。それが人間らしい感情ってもんでしょうに!」
「少し落ち着きなよ。折角寝かし付けたのに起きちゃうよ」
「私は自分の子に殺されそうになったら、喜んで受け容れる、ええ! もちろん!」
安楽死のある風景 ごんぱち

追儺
アレシア・モード

 大晦日の都は暗闇の底にあった。万和五年十二月――三十日の夜である。細まった月は透き通りつつ溶け落ちて、地の底で新月への再生に臨んでいる。星も無い。厚い雲が都の空を、木蓋のように重く閉ざしていた。

 その鍋底に、帝の御座す内裏があり、後宮があり――何やら煮詰まっていた。人々は明くる新年を思うより、寧ろ不穏な闇の底で、妖しい気を膨らませ始めていたのだった。
「いや、もうちょっと、何というか」
 宮中に長く仕える私――アレシアであるが、この夜の浮いた空気には馴染めない。
 鬼遣らいの儀を終え、一年を締めてしまえば気も緩む。異物との交渉劇である追儺は、宮中にしては刺激強めな娯楽でもあり、その熱を残すのも分かる。でもさ。
「大晦日の夜って、もっと静かに自分を見つめ直して過ごすべきかと私、思うんです……ね、そうでしょ。ねえ聞いてる?」
「――聞いてる」
 微妙な間を空けて、マリの気怠い声が返る。私は歯黒を練りながら、ちらとマリを見遣った。事務局勤めはそんな疲れるのだろうか。さっきから私ばかり喋ってる。歯黒を塗る間だけ言葉は途切れ、その度どこからか誰かの浮ついた沓音が響く。ような気がした。
「普通はもう、とっくに眠る時間だろうに、どこの鼠がうろついてるんでしょうねえ、マリ」
「そうねえ……」
 鬼遣らいで勇ましく弓を引いた舎人らの顔が思い返された。式を終えて夜も更ければ、舎人も警護の武士たちも、男はとうに帰ってしまっている。筈なんだけど。
「ねえマリ、みんな……」
「――」
 マリは寝息を立てていた。
「起きんかい、マリ!」
「――なぁぜ、なぁぜ……」
「我々、後宮挺身隊はッ! これより鬼退治のため出撃する」
「――ぐう、ぐう」
「いや、立つのだマリ! 乱れた風紀を糺す聖闘士を集めなさい。戦だよ全員集合!」
 マリは緩慢に立ち上がり、十五分後、精鋭の風紀委員が揃った。事務職のマリ、お裁縫の女クロード、童女アテキ、杓文字を構えた台所のオバサン、そしてやたら明るい馬鹿っぽい男が一人……
「だ、誰だあ、お前は」
「嫌だなあアレシアさん、もう、知ってて聞くんだもんなあ。あなたのスケナリ弱冠二十歳、式部の丞のスケナリくんに御座いますよお」
「……マジで誰?」
「まあ良いじゃありませんか。さあ鬼遣らいの二次会を始めましょう」
「よおし、直ちに行動開始!」
「お~」
 風紀委員会は灯りを点けて回るや不審エリアへ突入した。夜の底に悲鳴が響いた。
追儺 アレシア・モード

銭形平次 八五郎の大晦日
今月のゲスト:ChatGPT

 大晦日、神田明神下は新年の準備に追われる人々で大騒ぎ。どこからともなく聞こえるは蕎麦をすする音、そして子どもの笑い声。しかし、その喧騒の中、ひときわ緊迫感あふれる追跡劇が展開されていた。
「八! ここにいるのはわかってるぞォ!」
「出てきやがれ、蕎麦代返せェ!」
 掛取りたちの怒号があちこちから響く。蕎麦屋、酒屋、団子屋に魚屋。あろうことか、八百屋まで参戦している。狙いはただ一人、銭形平次の子分・八五郎。
 八五郎はというと、平次の長屋の裏手にしゃがみ込んで必死に息を潜めていた。
「なんでこうなるかなぁ。今年のツケは来年払うって、みんな納得してたじゃねぇか!」
 いや、納得していない。むしろ全員、八五郎の言う「来年」が一生来ないと確信している。

 その頃、長屋では平次が縁側で茶をすすりながらのんびりしていた。
「今年も静かに年越しできそうだな」
 隣で正月の料理を準備していたお静が、包丁をトントンと刻む手を止めて顔をしかめた。
「親分、八公がまたツケ取りから逃げ回ってるみたいですよ」
「ほぅ、またか。あいつも懲りないやつだ」
 お静は苛立ちを隠さず言った。
「親分が甘やかすからですよ! あの男、まったく成長しませんねぇ。それどころか、平次さんのそばにいるときだけ妙に嬉しそうで気持ち悪い!」
「そりゃあ、お前、俺の人徳ってやつだろう」
 平次はそう言ってケラケラ笑ったが、お静は鋭い目で睨む。彼女には気づいている。八五郎がただの子分以上の感情を平次に抱いていることを。

 一方、裏手では八五郎が考えに考え、天才的なアイデアをひねり出していた。
「そうだ!変装して別人になれば、掛取りどもも気づかねぇ!」
 平次の家の干し物から古びた袈裟を引っ張り出し、頭巾をかぶると、八五郎は自信満々で長屋を出た。
「どこからどう見ても立派な坊さんだ! 俺に気づく奴なんていやしねぇ!」
 だが、彼の雄姿は長続きしなかった。
「あれ? おい、その坊主、顔が八公そっくりじゃねぇか?」
 蕎麦屋の親爺がジロリと睨みつける。
「え、ええ、いえいえ!私はただの旅の修行僧でございます。煩悩を断ち切る旅の途中で――」
「煩悩の塊が何ぬかしてやがる!」
 その瞬間、遠くからスッと何かが飛んできた。キラリと光るそれは銀貨。親爺の手元に収まると、周囲の掛取りたちも次々と沈黙した。
「これで八の分を頼むよ」
 いつの間にか現れていたのは銭形平次だった。
 平次は八五郎を呼び寄せ、頭を軽くポンと叩いた。
「八、これで今年のツケはチャラにしてやった。でもな、これが最後だぞ」
 八五郎は感極まって泣きそうになりながら言った。
「親分……あっし、本当のことを言います……親分のことが――」
 その瞬間、横から包丁を持ったお静がズカズカと現れた。
「八公、いい加減にしなさいよ!」
 八五郎は青ざめ、慌てて声を変える。
「い、いや、親分が大好きって意味で! その……子分としてね!」
 お静はジロリと睨みをきかせ、ため息をついた。
「どうせ来年もやらかすでしょうけど、親分の迷惑にならない程度にしなさいよ」
 平次はその様子を笑いながら見つめ、八五郎にこう言った。
「八、お前は変わらなくてもいいさ。来年もその調子で頼むよ」
 八五郎は妙に浮かれた様子で「来年こそ!」と胸を張ったが、果たしてどうなるやら……。

 大晦日の夜空には、月明かりと笑い声が満ちていた。
銭形平次 八五郎の大晦日 ChatGPT

冬の夜路
今月のゲスト:木田周二

 置く霜の白い十一時過ぎ、目白坂を登る。半年も病んだ脚気上がりの足が重い。曲りくねった急な坂の三分の一も登らぬに動悸が劇しく呼吸が苦しい。屈みながら喘ぎ喘ぎ歩を運んでいたが終に堪えられなくなって立ち止まり呼吸を整える。坂上の闇は森閑として、ただ三個の軒燈が赤いばかりである。振り返って坂下を見ると水道町、江戸川の空は薄明るく、電車が軌道を轢る音、按摩の笛の声、歳暮の街に忙しく徂来、売買する人々の私語会話の合して共鳴するワアと響く声……
 その共鳴を聞いて居ると、その紛然雑然たる声を形成する或る一声が漸々その個性を際だって明瞭に発揚し来って他の諸声と分離する。日本国に行わるる音字を以て表すことの出来なかった此音がやがて吾が耳に次の四音を連続せるものなるを感覚せしむるに至った。『カラコロ、カラコロ……』
 下駄の歯が霜に凍てた道路面を摩する音である。此四音が十二三回連続する毎に小児の咽喉から出るらしい他の声が間投される。『かったあ』
 カラコロが数十回、かったあが三四回反復せられ、その瞬間、坂下の角の呉服屋の横を折れて此坂の入口に飛び込んだ人間がある。バタバタと急しく音をさせて馳せ来る。靴を穿いて、海軍服を着て海軍帽を頂いた六七才の男の子なるを知り得たとき、再び坂の入口に立ち現れた黒い影が有った。男児が佇立して居た予に近づいて急に振り向いて坂下の黒い姿を見出すや、
『勝ったア』と叫んだ。坂下の影がカラコロと音を立てながら、
『まだ負けやしないよ。ホホホホ』と女の声で答えたらば、その児童は更に直ちに馳け出した。
 予は吾に帰って、その児に先立って登り出した。その児は仲々な速度で追って来る。幼児は楽しく呼吸を弾ませ病者は苦しく呼吸を弾ませた。不動の前で坂を登り切った刹那、幼児は病者に追い及び直ちに一歩を先んじた。そうして坂の方へ向いて、
『勝ったよ』と呼ばった。黒暗々たる窟のような坂から苦しそうな女の声で云う、
『坊やは早いねえ。だが負けないよ、まだ』
 幾個かの軒燈(其の内には交番の赤い灯が一つ、売薬屋の青い灯が二つ含まるる)を越えて予と幼児とは前後して走った。幼児の母の足は疲れたらしい。目白街道に一軒の起きたる家無く、一人の来るにも逢わない。細川邸のアーク燈は左右の塀に限られて扇型に地を照らす。銀扇の中に鶴亀松が黒絵の様だ。幼児は松の下を過ぎ、扇を越えて塀の陰へ這入った。足音がバタバタと続く。
 予は此時悠々と歩んだ。手を懐にして胸を抑えた。而して彼等母子の親愛と健康とを羨んだ。吾輩にも父母が丈夫にまします。父母と予とは此母子の如く親しみ、愛し合ったろうが、それは過去だ。今日予が此く成長して理性的、自覚的紳士的な生涯に入り、父母が老ゆるに当たっては、再び予と父母と抱擁することは出来ない。予は父母を敬し畏るる。父母は予に対って世の常の人々に向かうが如く礼法と遠慮と気兼と世辞と揶揄等を応用し、且つ互いにその効果を認むるに至った。而して予の健康は目白坂を一息に登り尽すべく些かの価値も無い……
『勝ったあ、一等ゥ賞ォ』塀のくらがりに嬉声が挙げられた。予はアーク燈を離れて同じく暗に入った。十間の前に子が居る。そうして半町の後に母が居るという予の地位は空間に於いてまた腕力に於いて彼の母よりもその子を捕うるに便利である。此暗中であの子をわが束縛の下に置き、手足に錠し声を立てさせずして、暫時、危険を蔑視してその子を手放し、以て予を煩悩させた彼の母を(ほんの暫くなりとも)心配に陥らせて見たい。健康と愛とに楽しむ彼等の交情を中断し得て予は如何に快感を與えられるだろうか。やって見ようか、此の重罪を犯そうか。何とは知らず、予は袖から手を出した。眼を放って暗中を窺った……
 女子大学の門前の明るい処に、一軒の家の格子戸の前にわが獲物なるべき海軍服が立って居る。
『御かあさァん、早くお出でよう』と呼んで格子の内へ這入る。一丁の彼方である。暗中に立ちすくんで居る予を追い越す所の彼の母は予の顔を覗きながら、
『エライわねえ、ホホホホホ』と笑った。
 ついに強者は勝った。弱い吾輩は罪を犯す程の強さも持たぬ。
 予は水ッ鼻汁ぱなをたらし、粉のような白い呼気いきを吐きながら、羽織、綿入、帽子に霜の置いて触るればバリバリと音するを着けたせきを大根畑の道に運びつつある。森の彼方の他の森の裡の予の家には、父母が予の機嫌を損ぜぬようにと、茶と汁とを温めて居るのだろう。