←前 次→

第17回3000字小説バトル Entry10

待合室の風景−鼻水をたらしたインディアン−

風邪を引いて声を嗄らした母親が、小さい女の子を二人連れて診察の順番を待っている。子供たちも風邪気味らしく、姉娘は鼻をたらしているし、妹娘は時折ごほごほとせき込んだりする。母親は何度か携帯電話で呼び出されては、その度に人目を避けるように玄関の方に出て行って、しかし大して声を低めるわけでもなく、何か自分が仕事を休むことに関して話をしている。「遅番」という言葉が聞こえる。仕事の話をするからといって特に丁寧な口調になるわけでもないところが気に止まる。
母親は髪の毛を無造作に後ろで一つに束ねて、パジャマのズボンらしきものをはいてコートをはおっている。二人の子供を叱りつける口調は疲れていて、体調の悪いせいではあろうが、でももしかするとこの倦んだような発声の仕方がこの人の常態なのかも知れないと思う。本のことを「ごほん」と言ったり、下の子供に「しーちゃん」と呼びかけたかと思うと次には重々しく「しおりさん」と言ってみたりする。語彙の用い方が妙に文学的というか古臭いというか、子供の母親としてはいくらか高齢であるせいもあろうが、職業的な習慣によるものかも知れないという想像をついしてしまう。何回諭してもソファーの背に這い登ろうとする上の娘が、あぶないからという母親の説得に「あぶなくない」と口答えし、それに対して即座に母親が「あぶなくなくない!やめなさい!」と少々ヒステリックに叫んだ時には特に、思わず吹き出しそうになりながらもつくづく彼女の職業に関して思いを巡らさずにはいられなかった。「あぶなくなくない」。…確かに文法的にはおかしくないのである。それにしても口ごもらずに早口で叫ぶのはちょっと難しい。
母親は下の娘にせがまれて、待合室の本段から子供が持ち出してきた本を読んでやる。電話で仕事の話をする時にもその大儀そうな口ぶりを変えないのと同様、本を読み聞かせる口調にもひたすら抑揚が付かず訥々としている。そのあまりに感情のこもらない声のまま、「地球の平和を守るため、」とふいに聞こえてきてどきっとした。本の表紙を盗み見る。…ウルトラマン何とかの本であった。

私も娘の麻里花を連れて順番を待っていた。二歳の麻里花、今日は三種混合の予防接種である。
私たちに背中を向けて座っている男性と女の子供の連れがいた。野球帽をかぶってマスクをした男性はよく人相が分からないが、子供の父親にしては年齢が高すぎるようだ。お爺ちゃんと孫だろうと思う。
女の子供は五,六歳といったところ。色白の顔に大きな目と、ふっくらとした赤い唇が印象に残る。髪飾りをつけて結わえた髪の束が二つ、愛らしい二本の角のように頭上に突き出している。 細い両足もすっと伸びて、なかなかかわいらしい少女である。そしてその愛らしさでもって、いささかむさくるしいお爺ちゃんの膝に何のてらいもなくしなだれかかる。
一瞬、麻里花が大きくなってうちの父の膝に甘えるところを思った。しかしその想像はあまり現実味をもって迫っては来なかった。特に父の病のこと、数年後には覚悟しておかなければならないと常々自負している来たるべき死のこと−が、頭にちらついた、せいではなかったのだが。そのことには後日、この日のことを思い返していた時にようやく気付いて、自分を少しはがゆく思った。
その女の子にお爺ちゃんが絵本を読み聞かせてやる声が、しばらく前から聞こえていた。マスクのせいもあって、ぼそぼそと読む声の、言葉がちっとも際立って耳に入ってこない。小学生が懸命に本読みをするような感じで、一字一句、間違えないようにひたすら文字を追って読んでいるらしいのが伝わってくる。女の子はおもしろいともおもしろくないともつかない表情で半分だけ耳を傾けている。お爺ちゃんのあまりに芸のない読み方に、さすがに少しあきれているような風でもある。
待合室内のムードに刺激されて、麻里花もついに、自分から私のもとを離れて行って、本棚の絵本を一冊選んできた。ほら私にも、といわんばかりの表情で本を差し出す。−ピーターパンの本であった。かいつまんで説明してやろうと読み始めたが、ピーターパンのはがれてしまった「影」を、ウェンディーが針と糸で縫い付けてやる、物語のごく初めの部分のエピソードで既に行き詰まってしまう。そして我が親子は早々に、絵本読み聞かせ合戦からは撤退したのであった。

例の母親の受難は続く。二人の姉妹はもういい加減待ちくたびれている。特に下の娘−麻里花とちょうど同じか、少し小さい位かと思う−は疲れ切って、更にいたずらがエスカレートする。玄関の方に出て行って、長い靴ベラを持ち出して振り回している。母親はうんざりしきっているが、しかし彼女の叱責する声はやむことがない。そしてその声には、聴衆に徹する私たち、待合室の人間全てを、非難するような響きがある。自分がかくも不幸であることを切々と訴えるような。中でも同じく母親である私が、多分その彼女の訴えを一番如実に読み取る。
三人がようやく名を呼ばれて診察室に消えた時には、恐らく待合室の誰もが内心ほっとため息をついた。そしてしばらくして母娘が出てきた時には、母親の表情はやっといくらか穏やかになっていた。
薬が出るのを待っている間に、姉娘の方が麻里花に興味を示して近寄ってきた。麻里花のことを「女の子?」と聞いてきたので答えてやると、だんだん擦り寄ってきて話をし始めた。曰く、名は「いとうゆうな」。四歳。幼稚園ではなく保育園に行っているというのを聞いてなるほどと思う。あさ黒い皮膚、しまった足首をまじまじと見た。麻里花の白くてぽちゃぽちゃした体つきと比べると驚くほど野生的である。鼻水が固まって白くなった跡が、インディアンの顔に施したペインティングを一瞬連想させた。
彼女の自己紹介は続く。髪の毛をしばっていたゴムの飾りか何か、ピンク色の物体が口から出たり入ったりしている。妹の名はしおり。妹は二歳で、やはり保育園の「ひよこ組」に通っている。お母さんはお医者さんに「風邪を引いているからあまりしゃべらないように」言われた。この子もお風邪引いたの?と聞いてくる。ううん、まりちゃんは注射しにきたの。ゆうなちゃんも注射したことあるでしょ?−うん、すっごくいたかった。…と、麻里花がなぜか「ひこうきのったの」と彼女に話しかける。彼女は「ふーん。こわかった?」と返してくる。会話が成り立っているようなのについ感心してしまう。

ゆうな嬢が他人の私となかなかお利口に会話するのを見たせいか、視界の隅に入る母親の表情は更に柔らかくなっている気がした。私の顔を見ないようにしつつ、こちらの様子をうかがっている感じが伝わってくる。ようやく何か義務を果たしたような気持ちになって、ほっと息をついた。
そしてついに私たちの名前が呼ばれ、麻里花の注射が終わって診察室の外に出た時には、あの母娘はもういなかった。
麻里花は注射に泣かなかった。我慢し得たというか、あまりに痛くてびっくりしたので、泣く機会を逸したような感じだった。ものすごく意固地な表情になって唇をきっと結んでいた。で、病院の外に出て数歩歩き出してから思い出したように泣いた。まりちゃんちゅうしゃがいたいってしらなかったのにい。しってたらもっとはやくないてたのにい。そう言いたげな表情でめちゃめちゃにぐずり泣きした。

←前 次→

QBOOKS