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第17回3000字小説バトル Entry20

届かないラブレター

 
 サンデッキに佇んでいると、海は空を空は海を静かに映しているのが分かった。
 
 昨日は、能古島がはっきりと見えていた。今日の風景は昨日とは違う。昨日という過去に見えていた風景と全く違って見える。そう、これが生きているという証拠なのだと気付くまで、そんなに時間はかからなかった。汐の香までもがいきいきと、私の口腔でふくらんでいた。
 私の心は、海の展望台から見渡す限りの眺望の真中を漂っていた。私は、ただ此の事を告げたくて何年ぶりかの手紙を書こうと決心した。忍ぶ恋という程のものではない。独りよがりの内気な想いを、どれだけかでも綴れれば投函することもない恋文で良かった。

 昨日の夕暮れ近くに叔母は物静かに或ることを告げた。
 TVニュースでは梅雨明け宣言が流れていた。縁側からの涼風に蚊取り線香の煙が揺れて、叔母の前で渦を巻いていた。縁下の踏み石の横の水瓶からは突然の夕立ちで雨しぶきが踊り、その向うに頭を垂れた朝顔のつぼみが見えていた。
 淑やかな黄昏の薄闇が辺りを包み始めた頃、叔母はか細いけれど、しっかりとした口調で話はじめた。
「貴方も三十路の真中ね。想い出を捨てて、過去に因われずにプロポーズの返事をしちゃいなさい」
「えっ、突然でびっくり。脅かさないでよ」
「実は、お盆前にこの店閉めようと思っているの。兄さんが死んで五年目の夏になるのね。あなたには店の手伝いばかりさせてしまって、本当に悪かったと反省してるのよ」
 父の借金の返済にあてる為に 、祖父の代からの展望喫茶『洗心亭』を売りに出す事にしたとは、叔母は決して言わなかった。そのことが、私をとても切なくさせた。何故なら、このお店だけではなく叔母の輸入雑貨ショップ『エスポワール』もすでに銀行の抵当に入っていたからだ。
 叔母は曾根崎という年下の実業家と愛人関係にあったのだが、私はその彼に半年前、突然のプロポーズを受けた。彼の本妻は昨年病死していて、独身貴族だと吹聴しては彼が毎晩飲み回っていた頃だ。
 叔母は50歳には見えないほど若々しくて、深紅の口紅がとても似合う女性だった。艶のある瞳は私の憧れだった。その叔母が『エスポワール』を私に譲る条件で、曾根崎との別れ話の示談を進めていたのだ。自分の希望を犠牲にしてまで守ろうとする『エスポワール』。
 
 私の愛した白木は、父が死ぬ一年前に私を捨て、ある女性と東京で暮らし始めていた。その若い女性が曾根崎の実娘だと 後で叔母から聞いたのが、奇しくもあのプロポーズの日の夕食の席だった。お互いに悲しいほど笑って、はしゃいだ晩だった。叔母の歯並びが哀しい程に美しかったのを覚えている。

 叔母は今でも曾根崎を愛している。
 私は、白木を愛している。彼は、私に五歳の男の子がいることなんて知らないだろう。
 そして、私は叔母のことも、とても愛している。
「今日は、女2人で飲み明かす?ワインの美味しいのが3本冷やしてあるわよ」この人はとても不思議な魅力を持つ女性だとつくづく思い始めた頃、私は深い眠りに堕ちかかっていた。
 叔母は、もう待つ事を選んだんだろう。帰って来ないかもしれない男のことを。魂の老いを覚悟してまで。
 真綿のような眠りがゆっくりと私を包み始めた頃、倒れたワインの瓶に映る蛍光灯が滲むように見えて、私は孤独に堕ちて行った。

 覚醒することのない眠りは、光りの届かない深海で密やかに降り注ぐマリーンスノーに似ている。漆黒の闇の中で人知れず降り注いでいく百億年の沈黙。 
 
 私は、髪を後ろに束ねて肩肘をついたまま、いつもの手紙を書いている。
『今日、僕ちゃんが初めて掴まり立ちをしました。得意げに涎をたらして笑っています。う〜うと話し掛けています。涙が零れそうになりました。・・・・・・それでは、また』
 私は夢の中を歩いている。
『今日、僕ちゃんが「ママ」と喋りました。私の胸に顔をつけて甘えています。鼻の下に繊毛のような産毛が生えています。・・・・・・それでは、今日はこの辺で』
 私は夢の中で泣いている。
『今日、僕ちゃんが「パ〜パ」と喋りました。不思議な気持ちです。お婆ちゃんのことなのかな。髪を切ってあげなくては。・・・・・・また、書こうと思います』
 私は夢の中で独りぼっちだ。
『今日、保育園の入園式でした。しっかりと前をみて座っていましたよ。ひまわりの花を胸に。パパは外国で仕事をしているの?と聞かれました。お婆ちゃんが話したのかな・・・・・・おやすみなさい』

 私はこの夢が本当に醒めなければ良いのにと思っている。永遠の夜に撒かれたままで。

 私は、翌日の叔母の朝食の支度をしながら昨日の夢の事を想った。『エスポワール』で白木に出会った頃の事を思い出していた。「グリーン系のレジメンタルタイは淡いベージュのワイドスプレッドのシャツに似合いますよ。ホワイト系よりも素敵に見えます」といった会話だ。戻れるなら戻りたいときめきの一瞬。

 街の埃をすべて洗い流がすほどの夕立ちが止んで、まだ明るいと思えるその日の夕方に曾根崎は『エスポワール』へやって来た。たわい無い冗談を言いながら商品を選んでいる。本当は商品なんて高ければ良いんだと言いたげにも見える。叔母はFUKUZOUの竜の落し子のペンダントを身につけて、ショーウインドウのレイアウトのやり替えをしている。麻のバギーパンツにパステルピンクのシャツを装って、腕を組んで微笑む表情には、後悔が漂っていた。
 店のカウベルがカランと響いた。夕立ちで濡れたベージュのコットンスーツ姿の白木が立っていた。髪型は昔のままだ。雨の雫が髪の毛をつたって床に落ちていく。
「何故、どうして」
 私は、倒れそうになるくらいに心臓が高鳴った。
「今日で、すべての決着が着く。俺は彼女へのプロポーズの返事さえ聞ければいい」
 曾根崎のいつにない大声が響いた。異様な雰囲気の仕業に翻弄されている様に見えた。
「人の心変わりを責めてはいけないわ。皆一生懸命、人を好きになったんであれば、それは咎めても同じことよ。私は、白木さんに姪の書きためた手紙を手渡し、曾根崎さんへの挨拶を済ませたら店を後にします。白木さん、突然の電話で呼び出してごめんなさいね」
「曽根崎さん、世の中は、どうしょうもない事だらけね。あなたが本気で惚れたのなら、私は姪とあなたと『エスポワール』に賭けてみたいわ」
 白木は200通程の手紙の束を見て驚いている。
 切手に消印すら無い自分宛の手紙を白木は抱き締めて、呻くように泣き始めた。
「何だか、俺も『エスポワール』に賭けたくなったよ。希望という名の店に」
 曾根崎は叔母の顔を食い入るように見て、足早に店を出て行った。叔母が堰をきったように泣きながら彼の後を追って行く。 大人の女性の残り香が、私を震わせるくらいに切なくした。

 ショーウインドウ越しの車の往来風景の中に、歩道橋の階段を元気に駈け降りるてくる男児の顔を白木は無言で見つめていた。
 これから恐らく鳴るであろうカウベルの音は、今の私と白木に一番必要だった覚醒の予感を生む筈だ。それは深く響くに違いない。鳴らなければ、私は、これからも手紙を書き続けることになるだろう。
 
 今では私だけの届かない手紙を書くのも、それ程悪くはないと素直に言える気がする。
 それは自分の存在が残るような、伝わらなくても巡り続けるような、私自身へのラブレターなのだから。

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