←前 次→

第18回3000字小説バトル Entry14

夜の香り

 流しの上に点した小さな蛍光灯を頼りに、洋は自分の茶碗に番茶を入れて、炬燵に戻った。
 久しぶりに夕飯を共にした次男夫婦が帰ってしまうと、家の中はしんと静まり返り、ものの影が急に濃く沈んだようであった。
 孝子もくたびれたらしく早々に台所をしまって、風呂に入っている。それぞれに若い嫁と姑はまだ互いに気を遣いあって、なかなか他人行儀が抜けないようである。
 今は幸い、二人ともどこも故障はなく健康で暮らしているが、いずれは一緒に住むことになるのかどうか、できれば若い夫婦の世話にはならずに、これからも自分たちで支え合って、最後まで歩いて行きたいものだと思うが、先のことだけは何とも言えない。
――そろそろ結末をつけよう、と思う。
 灰色の革表紙の手帳の中から、広海の落ち着いた声が聞こえて来た。
(結末か)
 表向きは事故とされたあれは、ではやはり広海が自ら求めたものであったのか。たとえそうであっても今さら引き止める手の出しようもなく、この手帳の中でも広海の時の終わりは刻々と迫りつつある。
 しかし、それに続く広海の声には、思いがけない明るさが感じられた。
――書き残した事はまだ沢山あるような気もするが、恐らく切りのない事であろう。
 あの文章を綴りながら果して自分は死に近づいて来たのか、逆に遠ざかったのかも、よく判らない。ただ色々と、自分を消して想像したおかげで初めて見えて来たものはある。……
(俺には何も見えやせんぞ)
 向こうからは微笑する気配だけで、答えは返ってこない。しかし代りに、
「大学の課題で、今度はダンテを読みましてね」
 死の前の年、通信教育で大学に入り直して、好きだった文学を学び始めていた広海の、楽しそうに語っていた声音が思い出された。
「ダンテというと、『神曲』かね」
「そうです。……やっぱり古典を勉強しなければと思いますね、趣味でやっていたつもりでも、ちゃんとした本はなかなか読んでないものでして」
 その時に話した細かい内容などわすれているから、客観的には自問自答には違いないのだが、問が浮かぶと、それにつれて広海の答がはっきりと聞えてくるのである。
「地獄とか、天国の話が書いてあるんだったろう」
「そうそう」
 広海が中でも興味を覚えたのは、やはり自殺者の描写であったらしい。彼が手帳に残している説明によると、自殺者は「暴力者」の一種として、地獄の第一圏に住んでいるのだそうだ。彼らは勝手な所に落ちた種から芽を出した草木に化って、じっと生えている。そこへ獣がやってきてその茂みをむさぼり食う。しばらくして再生するとまた獣が来て食う。それを繰り返すのだそうだ。
「それで、死ぬのは思い止まったというわけだね」
「いやあ……まあ、それもありますけれどもね」
 勢い込んで問いかけると、柔らかく苦笑する表情が見えた。地獄へ堕ちるからなんて、そんな子供だましに威かされるほど単純じゃない。そうも言いたげである。
「結局は、この世も、地獄と同じではないかと思ったのです」
「……そうかな」
「いや、その位つらかったとか、だから生きる価値がないとか言うのではなくて……何と言ったらいいか、地獄では死を願っても決して与えられない、それはこの世でも同じことじゃないかと思ったのです」
「…………」
「仮に自殺を図って成功しても、それは本当に本人の仕事じゃない。ただその時その人に、最後の審判が来たに過ぎない……そう思ったら、二六時中死ぬことを考えている必要はないという気がしてきて」
「ふうん」
「本当にそういう時が来たら、何も考えずに機械的に跳べばいいではないかと」
 するとやはり、自殺念慮が消えた訳ではなかったのだろうか。しかし洋の心眼に映る広海はむしろ、さばさばとした表情にも見える。
「憑き物が落ちたようなものですね。まあ、普通の人はこんなこと意識せずに毎日生きているんでしょうけど」
「でも、自分で本当に納得するのが大事だからね」
「そうなのです」
 同意してやると、満足したようであった。やはりあの頃の広海は、文学を学ぶことで少しずつ新たな生命を見出していたのであったろう。それは何と言っても、彼にとっては幸せなことだった。
 せっかく生きる意味を見つけたのだろうに、何故、死んでしまったか……。腑に落ちぬ思いのままに頁を繰るうち、洋はふとある記事に目を留めた。ぎっしりと書き込まれた青いインクの細字は、いよいよ最後が近づいていた。
――この頃、痔がまた少し悪くなっている。
 やはり、冬からこっち、考え詰めていたせいだろう……と、広海は書いていた。
――不思議なことに、ストレスが掛かっている最中は何事もないのに、解放されてほっと一息つくと、身体に何かしら響く。歯が痛んだり、痔が出たりする。一昨年あたり最もひどくなった頃は毎日出血が激しくて、道を歩いていても意識が白くなるほどだった。
 たださえ便通が滞るので、腸の働きを促すために、できるだけ運動することにしている。自転車を走らせていると、文章も不思議に浮かんでくる……。
 洋の眼には「あの時」に起こった事が映像になって見えて来た。
 春が来て、暖かい日射しの注ぐ街を、痩せて背の高い広海が図書館へ向かってゆっくりと自転車を漕いで行く。横断歩道の前に停って一と息つき、渉ろうとする刹那、貧血で衰えていた彼の意識に空白が生じた。遠いと思っていた車が既に迫っていた。軽い身体はまるで割箸のように高々と空に跳ね上げられ、路傍に叩きつけられた。広海の生命そのものも、使いふるしの割箸のように打ち砕かれた。
(馬鹿な奴だ)
 洋は呟いた。自転車は痔に悪いから控えろとあれほど言っていたのに。いやそういう問題ではない。遺書をものすなど全く無用の事だった。人の生き死になど、結局はそんなものなのだ。
 ふと位牌棚の方でごくかすかな、空気の動きのようなものが流れた。夏海と佳奈の帰り際に上げて行った線香の灰が、崩れたけはいであった。それを感じた、と洋はおもった。夜はその位に静かであった。
(そういえば……)
 パソコンが壊れて、空に帰ってしまったが、無用になった筈の「遺書」に、広海はどのような結末をつけたのであろう。
 彼の手帳を読む所から始まった今日一日は、その文章に導かれ、支配されてきた筈である。そう思い出させられてみると、手帳を読み終わった瞬間に、父親もまた心臓麻痺か何かで倒れるような最期もあり得たかも知れないのだ。
 しかし広海はそうはしなかった。自らも生きる事を選んだ彼は、自分がペンで作って来た世界にも、命を与えて閉じる事を望んだに違いない。
 ああいい湯だった、と孝子が風呂から上がって来て、ソファにぺたりと腰を下ろした。
「夏海のところにそのうち赤ちゃんが出来たら、皆で温泉にでも行きたいわね」
「そうだな……しかしあまり云わない方が良いね、二人には二人の考えもあるだろうし、佳奈ちゃんが負担に思うといけない」
 タオルを頭から被ってかき回しながら、判ってます、と言うように肯くのを見て、洋はさり気なく立ち上がると灰色の手帳を棚の上に戻した。何か華やかに浮き立つような気分を感じながら。

←前 次→

QBOOKS