第18回3000字小説バトル Entry4
先ほどから外で、奇妙な音が聞こえていた。人の気配がする。
窒息しそうなほど狭く薄暗い廃墟の一室で、吉田は拳銃を握り締め、ドアの方向に神経を集中していた。緊張感を維持し続ける苦痛で膝が小刻みに震えている。
明美はその傍らで、いつものようにぼろぼろになった電話帳を開いていた。携帯電話のボタンを押し続けているのだが、どこにかけても繋がらない。うんざりした顔を吉田に向けて愚痴るのは、これで何度目か。
「やっはり、生き残っているのは私たち二人だけだわ。誰も電話に出ないし、誰も助けに来てくれない。もうこれ以上、何かをする必要はないんじゃないのかしら」
「そんなに簡単にあきらめるなよ。部屋にはまだ電気が来ているんだ。必ず生きている人間がいて、俺たちを助けに来てくれるはずだ」
拳銃を握りなおしながら、吉田が噛み付くように言った。明美は、すでに携帯電話を床に投げ捨ててしまっている。
静寂が絶望と恐怖を伴って、再び部屋中に満ちた。二人の間に流れた沈黙が、まるで彼らを暗黒の世界に引きずり込もうとしているようだ。
と、その時、外からけたたましい悲鳴が聞こえてきた。
誰かが入口の向こう側でドアを激しく乱打している。吉田と明美は同時にドアの方を見た。
「開けてくれ、中に入れてくれ」
吉田があごをしゃくって明美に合図した。明美は無言で頷き、ドアに駆け寄ると、真ん中にある覗き窓に片目を近づけた。
「助けてくれ」
「あなたは誰?」
明美はドアに向かって叫んだ。
「すぐそこまでゾンビが追いかけてきているんだ。この扉を開けてくれ」
吉田は腰を据えて銃を構えている。振り返りながら、明美が困ったような声を出した。
「人間みたいね。傷もないし、血も流れていないわ。きれいな顔をしている」
「死んだばかりのゾンビは傷もなければ腐ってもいない。人間と見分けがつかないというのは、君もよく知っていることだろう」
「なら、見殺しにするの? 私はそれでも別に構いはしないけど」
「いや、入れてやろう。その代わり、例のテストをする」
明美がドアを開くと、飛び込んできたのは、サラリーマン風の中年男だった。どう見ても人間としか思えない。だが、吉田は疑っていた。死んだばかりのゾンビは脳みそも完璧に機能している。知能を操って、芝居をしたり、嘘をついたりすることだってできるのだ。
「あ、ありがとうございます」
近づいてくる男を吉田が拳銃で牽制した。
「来るな。お前が俺達の仲間かどうか、これからテストする。明美、準備してくれ」
明美が後ろ手でドアの鍵を閉めて、蟹のような横歩きでにじり寄った壁には、大きな機械が置いてあった。
カラオケセットと歌唱力判定機である。
この絶望的な異変に気づいたのは、まず、政府の統計調査室の役人たちだった。
近年の人口推移を調べていると、死亡数と実際の総人口数が合致しないことがわかったのである。さらに極秘調査の結果、国民の中にいつの間にか死人が混ざって生活していという驚嘆すべき事実が判明した。
ほどなくして、「存否白書」という政府見解がまとめられた。存否とは、「否定されるべき存在」という意味である。それによれば、存否はねずみ算式に増え続けているらしい。すでに、生者と死者の人口比率は逆転し、この国のすべてが死者になるのは、想像を絶するほど近い将来であるいう計算も公表された。
それがわずか一年前の話である。その間にこの奇妙な出来事についてわかったことといえば、存否に噛まれると人はそのまま死んで、新たな存否に生まれ変わるということだけだった。存否の原因究明が到底追いつかないほどの短期間で、すでに人類の存続は絶望的になってしまったのである。
吉田と明美が、どういう経緯をもってこの廃屋に閉じこもっているのかを詳しく語る必要はないが、ただ言えることがひとつだけある。それは、彼らの命を今日まで救ってきたのは、荒廃した街角の駐在所から盗んできた一丁の拳銃と、このカラオケセットだったということだ。もっと正確に言えば、カラオケセットに付随した歌唱力の採点機械である。
「歌え」といわれて、このような緊張感の中で人が歌を歌えるものだろうか。
が、拳銃を突きつけられてはどうしようもない。男は理由もわからず、演歌を選んで、恐る恐る歌い始めた。
男の歌声は最初は震えるようだったが、中盤に至ると徐々にのってきた。歌が人の心を変えるというのは、本当の事らしい。そのうち歌詞がサビの部分になると、歌声に手振りを合わせるようになった。
これはうまいわね、と明美は舌を巻いている。さすが、中年サラリーマン。カラオケは歌いなれているのだろう。
「もういい!」
が、突然、吉田の大声でカラオケは中断した。男は青ざめた顔をして、尻餅をついた。
「ま、まさか?」
明美が駆け寄る前に、すでに吉田の拳銃が轟音を上げていた。
後頭部が石榴のようにはじけ、そのまま脳漿を壁にぶちまけて、男は膝から崩れるように転がった。
「どうしてなの。歌、うまかったわ。こぶしも利いていたじゃないの」
「見てみろ」
吉田は落ち着いている。採点機が出したのは三十八点にすぎなかった。機械にはこぶしを利かせるという表現力が理解できないらしい。
「こぶしは関係ない。機械は正直だ。五十点以上はないと合格とはいえないよ。こいつはゾンビだ」
ゾンビの心臓は止まっている。人間というものは、自らの心臓の鼓動を基準にしてリズムを感じるものらしい。だから、ゾンビにはリズム感がないのである。歌が歌えないし、踊りも踊れないのだ。
いくら巧妙に人間の振りをしていても、歌を歌えばすぐに正体がわかってしまう。それが吉田の理論だった。
が、明美は反発を感じていた。もともと、彼女は音楽教師だった。だから、歌についての評価は自分に任されるべきだと思っている。
「これは人間の血だわ」
「何をいっているんだ。これまで俺たちが生きてこられたのはこの用心深さのおかげだぞ。さあ、臭いがする前に片付けよう。君は箒でカスを掃き捨ててくれ」
言いながら、吉田は、出来立ての死体を部屋の隅に引きずった。ゾンビは頭を破壊されると完全に死んでしまうのである。
明日は自分の番かもしれない……。
明美は血だらけになった箒を使いながら、そう思っている。
吉田は一日に必ず一度は、明美に歌を歌わせる。彼にとってそれは、人の存在に対する確信と生きる希望のための行為であった。
死体の処理が終わると、明美は吉田に気づかれないようにそっとトイレに入り、ブラウスの胸をはだけた。
そこには黒い洞窟がある。
明美が手を入れて振り子をゆすると、かちかちかち、と規則正しい拍節音がリズムを刻み始めた。それは、以前に音楽教室から持ってきたメトロノームである。
煩わしいけど、しかたない。
準備が終わると、明美は、カラオケセットの前で待っている吉田のところへ急いだ。
明美は、仲間意識という感情を超えて、吉田を愛していた。彼女は、ともすれば、その喉に食らいつきたくなる気持ちを抑えながら、少しでも長く二人でいる事を祈っていた。
それにしても、このテスト、演歌は圧倒的に不利よね。
彼女は歌詞カードをめくりながら、ふと思ったが、それもイントロが始まるまでの事だった。なにしろ彼女にとって歌を歌うことは、吉田の愛を確認できる至福のひと時なのである。