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第18回3000字小説バトル Entry5

神の子

 <すばらしい人生をいきよう>
 そのセミナー会場は、まるで子どもの頃の公民館での集会のようななごやかな雰囲気だった。そして僕は子どもの頃と同じように、演壇に立つ司会者や、講演者と絶対に目が合わないような場所に座り、講演が始まるのを待った。
 それはある宗教団体の主宰する哲学セミナーで、僕は同僚の女の子に誘われてやってきた。それまでの僕は宗教団体というものを敬遠していたと思うが、もともと思索好きな性格であったことと、その同僚の女の子を仕事の上でも、友人としても信頼していたので参加してみることにした。
 その日は、その団体で発行している新聞の記者の講演があった。講演の内容は、前半部で、それまでの僕のようにその団体や、宗教そのものを蔑視する人々を面白おかしくあげつらい、後半は、仏教に基づいたその団体の教えや、その団体の教祖の苦労や業績を賛美した。
 前半部はむっとするところもあったが、納得するところもあり、後半部は素直に感心してしまった。そんな僕に、講演終了後、その演者である新聞記者が入信を勧めてきた。同僚の女の子は申し訳無さそうに僕を見ていた。
 僕は全く入信するつもりはなかったが、元来他人の誘いを断ったりするのが下手で、「実は僕はブッダと同じ4月8日生まれなので、興味はあるんです」と余計なことまで口にしてしまった。
 僕は小さい頃から祖母に、「お前はお釈迦様と同じ日に生まれたんだよ」と聞かされて育った。自分では殊更意識しているつもりはなかったが、ずっと周りからは「優しい」という評価を受け、性格診断テストみたいなのをやってみると必ず「博愛主義者」という項目に行き当たった。戦争や理不尽な殺人のニュースなどを見て怒りと悲しみを膨らまし、人間とは何か、宇宙とは何かということに思いを巡らしているうちに、自分はブッダの生まれ変わりではないかという思ったこともあった。しかし、そんなばかな考えは捨て、もっと現実を見つめて堅実に生きることに務めた。だから、僕は宗教を信用していなかったが、社会学や科学の本を読み漁り、現実的な知識と感覚でこの世界や人間のことを知り、自分を高めたいと思っていた。でもその勧誘を逃れた後に、その講演がきっかけで、ブッダについて書かれた本を読んでみようという気になった。あくまでも仏教についてではなくて、ブッダその人について書かれたものを。僕はブッダのことをほとんど知らなかった。
 一週間かかってやっと本屋で見つけたその本は、国営放送が番組とタイアップして出版した本で、ブッダを神格化した伝承にはあくまで慎重に接し、できるだけ現実的な観点から、ゴータマ・ブッダその人を追っていた。僕はその本に好感を持ち、一気に読み進んだ。
 ゴータマ・ブッダは神でも超能力者でもなかった。ただ、より善く生きるための智慧を説いてまわった内省的な青年だった。ただ、その内省的な心から答えを導くために恐ろしく客観的な目を持った青年だった。
 僕はゴータマ・ブッダに共感した。一般的な修行である苦行を捨て、自分なりの方法でさとりを開いたことに。自分が感じることすべてをありのままに捉えることによって、この生が自分のすべてだとさとったことに。何ごともただ信じることなく、正しい見解を持つことを説いたことに。
 しかし、その本を読み進めるうち、僕は少なからずショックを受けることになった。その本にはこう書かれていた。
「日本では4月8日をブッダの誕生日として祝うが、ブッダの誕生年月日は正確に分かっていない」

 ある日、同僚の女の子から食事に誘われて、会社の近くのイタリアンレストランに入った。そこにはあの講演をした、新聞記者がいた。同僚の女の子はまた申し訳無さそうに僕を見た。彼女に理由を聞く間もなく新聞記者は口を開いた。
「先日の講演では分かりにくかったところを御説明しようと思って」
僕はもうその店から出て行きたかったが、やはり僕の性格上、笑顔で席についてしまった。そして彼は僕の意見も聞かずに、三人分のオーダーをしてしまった。
 それから彼はおもむろに、彼の人生がどん底だった頃の話を、さも楽しそうに語り始めた。かいつまんで言うと、彼は大学卒業後、友人とやっていた会社が、友人のミスで潰れ、その後、一緒に新しい会社を立ち上げようとした共同経営者に資金を持ち逃げされ、借金を背負わされ、ヤクザに追い回されたのだった。そこまで聞いたところで料理が運ばれてきたが、彼はまったく料理に見向きもしないで、僕の目をまっすぐに見つめながら話を続けた。そのため、僕も料理を食べるタイミングが見つからずに、傍らで、そんな僕らにたまに目をやりながら、もくもくと料理を口に運ぶ同僚の女の子を視界に捉えながら、僕は微動だにせずに話を聞き続ける他にしようがなかった。
 その借金を背負わされた過去の彼は、宗教団体に所属する現在の奥さんと知り合い、懐疑的ながら彼女と毎日一緒にお経と唱えているうちに、なぜか借金が消え、小さい頃からの夢だった新聞記者という職に就くことができた。そして、これはすごいということでその宗教団体に入信した。そこまで話して彼は身を乗り出して、僕に向かってこう言った。
「どうですか。あなたも入信しませんか」
そうダイレクトに問いかけられ僕は返事に窮してしまった。ワインを一杯喉に流し込みたが、彼はワインをオーダーしてくれなかったので、僕はぬるくなった水を一杯喉に流し込んだ。水はまずかった。水道水ではないだろうが、僕は故郷の東北の小さな町の実家の井戸水のうまさを思い出した。そして思いきって口を開いた。
「僕は確かに精神世界に興味がありますが、他人のお仕着せではなく、自ら体験したことについて悩み、考え、自分で自分なりの真理を見つけ出したいと考えています」
彼は、僕が反論したことに対して少し意外な顔をしたが、ひるまずに続けた。
「しかし、この教えがすでに真理だということははっきりしていますし、この経文を唱えるだけで、あなたは宇宙と一体となり、あなた本来の力を100%発揮できるようになるんですよ。別に嫌ならいつ辞めても構いません。ただこの経文を朝夕唱えるだけでいいんです。入信したからって他に何かしなきゃいけないという強制力もありません。どうですか」
この言葉で僕の嫌悪感は更に高まってしまった。
「ブッダはただ、信じるのではなく、正しい見解を持つようにと言っていますよね。ただ経文を唱えるだけで手に入る真理を僕は必要としません。僕はその真理を自分自身で見つける過程を求めていますから」
僕がそう言うと、彼はため息をついて、そして冷めたパスタの上に乗っているアサリの身をフォークとスプーンで口に運び、よく噛み、飲み込んでからこう言った。
「そうですか。本当はこのことはあなたに言っちゃあいけないのですが、仕方ないでしょう。実はあなたを入信させるように教祖から命令が下ったのです。あなたは4月8日に生まれたとおっしゃていましたが、あなたはブッダの生まれ変わりなのです。だからそのあなたが、他の団体に入信してしまったり、もしくは自ら教団を作ったりする前に、我が教団に入信してもらって、教団のシンボルとして活躍していただこうという教祖の意向なのです」
僕は呆然としながらも、自分の顔が笑顔になっていくのを感じながら、心の中でつぶやいた。
 さあて、どうしたもんかなあ。

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