←前 次→

第19回3000字小説バトル Entry8

バニラ

彼女の指先は、バニラの匂いがした。
そもそも部屋中が甘い匂いでいっぱいだった。そういえばさっき、思いついてクッキーを焼いてみたとか言っていたっけ。意外に少女趣味があるわけだ。…というか、女ってたいてい、「思いついてクッキーを焼いて」みたりするものだ。
多分、あまり見栄えが良いわけではない手作りのクッキー。ちょっと固かったりするに違いない。振る舞われる方もすすめる方も、多少気恥ずかしくなりながら口に運んで、それでやっぱり笑顔で言うんだろう。「おいしい」って。
しかし恋愛の一シーンとしてはよくある光景であり、定番を演ずるのも大して悪気はしない。恋することの快楽とは、実は定番を演じ切ることにあるのかも知れない。大昔から繰り返されてきた、愚かしくも哀しい、人間の行動パターン。
恋することは、そんなにも「人間」であるような自分を再発見する機会であるのかも知れない。

「さっき、レンタルビデオ屋に行ってきたの。」と、洋服を再び身につけた彼女が言った。化粧がいささか乱れている。
「この前、車で大きなスーパーに連れてってもらったでしょ。あのスーパーの横の坂道をずっと上って行ったところに、ビデオ屋があるって分かって行ってみたんだ。自転車で。」
「自転車で?」僕はちょっと笑って聞き返す。あの坂、そんなに急なわけではなかったけれど、延々と続いて結構先が長かったはずだ。
「うん。かなりキツかった。何とか頂上まで上り切って、ちょっとだけ下ったところでようやく着いたんだけど。」彼女も笑顔になって答える。
「そのビデオ屋がね、あれだったの。ほら、昔のわたしの部屋から坂道を下って行ったところにあったでしょ。あのビデオ屋と同じ系列のだったわけ。」
「ああ、あの、ピンクっぽい外装の?」
「ピンク?ええと、ピンクよりはむしろオレンジだった気がするんだけど。」
外装の色に関する見解は分かれたものの、彼女の説明と、僕の記憶の中にある「昔の彼女の部屋」の近くにあったビデオ屋との姿は重ならないではなかった。ほら、あの、入り口のすぐ右手に2階に上がる階段があって。ビデオは全部2階にあって、1階にはCDやらゲームソフトやらがある。それは作りが似てるだけで、別に系列ってわけではないんじゃないの、と僕は反論しかけて止めた。どっちだっていいことかも知れないと思い直したからだ。ひと気のない2階で、どこかで映画の音だけ流してるみたいで、ギャング映画みたいな凄みのある男の声が聞こえててちょっと怖かった、と彼女は肩をすくめて笑っていた。シャギーを入れた黒髪が肩先で揺れた。

学生時代に彼女が住んでいた部屋は、「星坂通り」という名の緩やかな坂道の中腹にあった。彼女に知り合う以前から僕は、自転車で何度かその坂道を通っていた。彼女と付き合うようになって、坂道の途中で自転車を止めては、四角い小さな部屋に上がり込むことになった。今まで何度もここをただ通り過ぎていたのに、と思うと不思議な気がしたものだ。
自転車の後ろに彼女を乗っけて、坂を下っていったところにあるビデオ屋で、初めて借りたのは確か『恋する惑星』だった。ビデオを見ながらつい僕は寝入ってしまい、結局ストーリーが分からなくなって、彼女の手前、さすがにちょっと慌てた。付き合い出してまだ日が浅かった頃のことだ。彼女は当然いささか機嫌を損ね、僕は後日、また同じビデオを借り出して、今度は家に帰って自分一人でそれを見た。そして見た感想を長文のメールにまとめて彼女に送信し(まるで大学の教官にレポートを提出するような具合だった)、やっと彼女の怒りも解けたような次第だった。
僕がそんな昔のことを思い出していると、彼女が突然言った。
「オレンジといえば、わたし、あそこのビデオ屋で『時計じかけのオレンジ』を借りて見たことがあった。あなたと付き合い出してからだったけど、ひとりで。」
「え?」ふいをつかれて聞き返した。
「そう、ひとりで。」僕と一緒に見なかったことをとがめられていると思ったのか、彼女はちょっと首をすくめて視線を外した。「オレンジ」というのは、さっきの外装の色の話のことだと僕は遅れて理解したが、しかし彼女が何を言おうとしているのかよく分からなかった。
「それでね、さっきのエッチのとき、ちょっとその映画のこと思い出したりしたんだ。」
「えっ?」僕はまたも聞き返した。彼女は顔を赤くした。僕はなおも追求しようとしたが、彼女が「いいのいいの」と笑ってはぐらかしてしまった。そこで僕の頭には別の疑問が生まれた。一体今日は彼女は何のビデオを借りに行ったんだろう。
「ところで、さっきは何を借りに行ったの?」
「ううん、何も借りなかったの。特に見たいものがあったわけじゃないし。」彼女は少し真顔に戻ってそう言い、そしてまた視線をそらして付け加えた。
「それに何ていうか、あれだけ坂道を上って下ってしただけで、何となく満足しちゃったんだよね。」
そして今度は僕の顔を見てわずかに微笑んだ。えっ、と僕はまたも聞き返しそうになり、やめた。今日の彼女は何かいつもと違う。

坂道と言えば、最近読んだ純文学の小説に出てきた話が頭にある。
上り坂と下り坂、どっちが多い?−そんな謎々が主人公の子供の頃あったという。同じ、というのが答えである。結局、坂道の上り下りは、自分が上っているか下っているかの立場に依存する恣意的な問題なのであるから。
そして主人公の男は、血気盛んな青年であった頃、その謎に自分なりの別回答を見出して悦に入ったという。−坂を1つ上るか下るかしたところで死んだら、人生において1つ分だけ、上りまたは下りの坂が多かったということにはならないか。−そして現在、そう語る男は老年の入り口にさしかかっていて、死ということについて様々に思いを巡らしたりしているわけなのであるが。
僕はその坂道の話に大して引き付けられたわけではない。僕自身はあまりそういった詭弁にとらわれない性質である。ただ、坂道というのは確かに色々な思いを誘うものであるな、と自分の体験に照らしてみて妙に納得したのはあった。
だから彼女が坂道を嬉々として上り下りしてきた理由も分からないではない。現に僕だって、彼女の話につられて、昔通った懐かしい坂道について何がしかのことを思い出したわけである。
−坂道イコール人生の縮図。−そんなありきたりのフレーズが思い浮かんで、僕は内心自分に苦笑した。

それからいくつか何でもない話をして、ちょっとだけテレビをつけて休日の午後の番組のつまらなさを確認したりして、僕は帰ることになった。今日はそもそもそんな約束だった。夕方から彼女は女友達と飲みに行くのだという。
「じゃあね。」いつものように玄関でキスをしようとして、靴をはいた僕は振り返った。
「じゃあね。」いつものように少し爪先立ちになって、目をつぶって彼女は僕のキスを受けた。
パタン、とドアが閉まる隙間に彼女のほのかな笑顔が見え、次いでバニラの香りがふわっと漂った。
あれ、と僕は初めてそこで気付いた。
−彼女、焼いたはずのクッキーを振る舞わなかったな。

エレベーターで1階まで降りるうちに、ふと「停滞期」という言葉が頭をよぎった。
1階に着いて戸が開き、僕は少し頭を揺すってから歩き出した。
数歩の後、僕はむせかえるような5月の緑に包まれ、まぶし過ぎるほどの午後の日差しがきらきらと僕の頭上に降り注いだ。

←前 次→

QBOOKS