第20回3000字小説バトル Entry10
指揮者のタクトが、与島享也を指す。
享也はすっと手を上げ、猫台に並んだ猫たちに触れる。
すると、猫たちは各々鳴き声を上げ始めた。
猫を追い掛けるように、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロと来て、コントラバスの低音が合流した後、一斉に管楽器やパーカッションが入った。
享也の呼吸と猫たちの気分は一致して、猫パートを奏でる。折り重なる音が練習室を満たした。
「――うむ」
指揮者が汗を拭い、タクトをしまう。
「ヴェッツォーネ『日暮れの歓喜』は、やはり練り込める奥深さがある曲ですね」
演奏者たちは各々楽器を片付け始めた。
「お疲れ、エルザさん――」
「あー、猫の人」
「はい?」
指揮者に声を掛けられ、享也は振り向く。
「少し気になる部分が――」
「もうおしまいなもんで」
享也が言う間もなく、猫たちは出て行った。唯一エルザだけが享也の足元にごろんと寝転がっている。
「ふん、お偉い事だな」
指揮者が吐き捨てる。
「は?」
「犬弾きだって牛弾きだって、大砲使いにしたって猫弾きほど扱い難くはない。なんでこうまでして猫なんか使うのか僕には分からないね」
享也は指揮者の言葉もどこ吹く風で、音を立てながら猫台を畳む。
「猫にもう少し言う事を聞かせられないのか!」
指揮者の声が大きくなる。
猫台をケースに収めた享也は、立ち上がった。
「猫を三十分も猫台にいさせられる猫弾きが日本に何人いるか、調べる事をお薦めしますよ――ではまた今度。エルザさん、帰ろう」
「にゃん」
暗い夜道を享也とエルザは歩く。
「ま、こんな日もあるさ」
「なゃ?」
「いや。君らの声はもう充分に要求水準を満たしてるさ」
猫台をぐっと背負い直した享也は、二の腕を揉む。
「やけに冷えるなぁ」
エルザは享也に踏み潰されそうなほど近くを歩く。
「ご飯どうすっかな? ゲン直しに外食にしようか?」
「にゃお」
ふたりは、それからしばらく歩いた。
「――もう真っ暗だねぇ」
享也は空を見上げた。
雲が多いせいか、月も星も見えない。
「もっと都会なら明るいだろうけど――エルザさん?」
エルザは、つ、といなくなってしまった。
「はいはい。お疲れさん。あ、集会にもじきに顔出すから」
エルザを見送ってから、享也が再び歩き出そうとした時。
街角に、ぽつりと明かりが灯っていた。
おぼろげな揺らめく光。
闇を払うほど強くはない。だが、享也が歩くには充分な明るさ。
「電灯? ――いや、この町にそんなもんがあるわけないな」
享也が明かりに近寄る。
『――も負けずに歩き続けよう。きっと明日は――』
詩人が街角に置いた椅子に腰掛け朗読をしている。足元にランプと詩集が置かれていた。ギャラリーは二人だけ。
「ああ、街灯詩人か」
暗い街角を照らし詩を謳う街灯詩人。夜の闇を照らす数少ない人々。
知らず、享也は足を止めていた。
『――悲しみをリュックの底に押し込んで、山頂を目指そう――』
マフラーの間から、少女の面影を残す女の顔が伺えた。無造作な短い髪をしており、眼鏡のガラス越しに見える瞳は、とても真っ直ぐだった。
享也は詩集の一冊を手に取った。
紐で綴じてある詩集は、多くの私製本がそうであるように、手書きだった。
ページをめくり、一本詩を読もうとする。
――ふわふわと柔らかき仔猫。
「ぷっ」
(猫の子がそんな生易しいもんか。ネズミをなぶり殺しにする奴だぜ。そんな一面的な見方しか出来ないようじゃあなぁ。猫の魅力は成猫の美しさと――)
そんな事を考えつつ、ふと詩集から視線をずらした。
じぃっと、街灯詩人が享也を見つめていた。いや、敵意を持って睨み付けているようだった。
(笑い声、聞かれた?)
享也は詩集を戻し、何事もなかったかのように立ち去った。
(俺は別に悪くはないぞ。批評は表現者の宿命のようなもんであって別に気を悪くする筋合いのものでも――)
角を廻って、街灯詩人の明かりが見えなくなる。
「にゃん」
「うわっ! な、なんだ、エルザさんか」
享也はそっと明かりの方を覗く。
「エルザさん、芸術の一端を担う者として、あの詩をどう思うかね?」
「にゃぁぁぁお」
真っ直ぐで正直だが、捻りも深みもない子供が書いたような詩。
街灯詩人の朗読は時々途切れる。指が寒さにかじかんで、ページを上手くめくれないらしい。
「にゃあ」
「そだな、ご飯だ。ご飯に……」
享也は立ち去ろうとする。が、足が動かなかった。
「大体街灯詩人から大化けする奴なんて本当に一握りだ……し」
街灯詩人の声と視線は真っ直ぐだった。
(猫弾きを始めた時なんかは、俺も――)
くしょっ!
小さなくしゃみの音が聞こえた。
「あんな詩のために」
エルザは無言で享也を見上げ、あくびをした。
「ったく」
享也がエルザの背をぽんと押した。
エルザは、真っ直ぐ明かりへ走って行き、街灯詩人の膝の上に、ひょいと飛び乗った。
「えっ、え? 猫さん?」
夜風に乗って微かに詩人の声が聞こえる。朗読の声とはずいぶん違った。
「……温かい」
戸惑いつつもエルザに触れる街灯詩人が見えた。
「ねぇ君、詩を読むけど、聞いてくれんね?」
「にゃ」
享也は別の道を通ってアパートへ帰った。
一週間、二週間、三週間……ひと月近くが過ぎても、街灯詩人は同じ街角を照らし続けていた。
「あ、今日も来てくれたん、猫さん」
「なゃあお」
「ありがと。今日のは自信あるんよー」
朗読を始める街灯詩人の膝の上で、エルザは丸くなる。
そしてランプの油が切れ始めた頃、顔を半分マフラーで隠した享也が姿を現した。街灯詩人の朗読は続いている。
享也は詩集を一冊取り、目を通す。
(やっぱり……何度見てもダメだな)
溜息を押し殺しつつ詩集を戻すと、享也はまた街灯詩人の前を立ち去った。
街灯詩人が享也に視線を向ける事もなかった。
タクトが止まった。
腕を下ろした指揮者は大きく頷いた。
演奏者たちは片付けを始める。
「……猫さん」
遠慮がちに指揮者が享也に声を掛ける。
「はい?」
「その、いいよ。凄く。元々音自体に文句はなかったけど、それ以上に何か、生き生きとしているよ」
「ありがとうございます。では、本番で」
「にゃん」
享也とエルザ、それに猫数匹は、一緒に練習室を出た。
(どうした、もんかな)
享也はポケットの中の、年末演奏会の招待券に触れる。
「にゃああお」
「やかましい、俺は、ちゃんとした芸術に触れさせようとしてるだけだ」
「にぃゃお」
「君たちは来るんじゃないぞ。あくまで通りすがりの聴衆だからな、俺は」
エルザは享也の足に頭をすり寄せ、尻尾を絡める。
「にゃお」
「――え?」
小さな雪片が、ちらちらと舞い降りてきた。
「ああ寒ぅっ」
街灯詩人は夜空を見上げながら、マフラーを口元まで引き上げる。自分の吐く息で、眼鏡が曇ってしまった。
「町が白く染まったら、ランプはいらんかなぁ」
ランプの炎が小さく揺らめく。
不思議なほど人通りはなかった。
「そりゃ、あたしゃまだ下手だけどね」
街灯詩人は大きく深呼吸して、コートのポケットから真新しい冊子を取り出した。
「笑うってのも、ずいぶん失礼な話だと思うんよ」
冊子をぎゅっと握る。
「今っ度こそ、唸らせやんだから」
丁度その時、一人の男がやって来た。
街灯詩人はその真新しい冊子を開く。
『気まぐれな猫へ――』
よく通る声で、詩を読み始めた。
真っ白い猫の毛を服にいっぱい付けた、そのいつもの若い男への詩を。