第20回3000字小説バトル Entry6
高志がこの世を去ったのも、こんな静かな雨の夜の事でした。
風はかすかに海の匂いがして、銀の糸のような雨は色付き始めた紫陽花の花びらをそぼそぼと揺らしていました。私は泣く事さえ出来ずに、白い布をかけられた彼のそばでただ呆然と佇み雨の音を聞いてたように思います。どうしたのでしょう。今夜は、それがまるで昨日の事のように妙に懐かしく思い出されてなりません。
ちょうど一年前、私は当時付き合っていた彼を胸の病で亡くしました。発病、入院からわずか半年あまり。高志はまだ三十歳という若さで志半ばのまま、ひとり彼岸へと旅立って行ったのです。
それからしばらくの間、私は絶望の淵で毎日泣きながら過ごしました。突然、自分の腕が根元からザックリと切り落とされてしまったような気がして、あるはずもない腕を探してその深い喪失感に苛まれました。私は彼の死をなかなか受け入れる事が出来ずに、仕事も辞めてひとり、暗闇の中でもがいていたのです。
ある雨の晩の事です。毎日泣き暮らす私をあの世で見兼ねたのでしょうか。高志が私に逢いに来てくれたのです。
人々のざわめきも街の喧噪も、全ての気配をあたたかく包み込むような雨が降っていました。あの日と同じ、銀の蜘蛛の糸が舞うような雨が。
彼の姿は見えませんでしたが、私には彼の存在が痛い程伝わって来ました。
「高志……高志なんでしょ?私に逢いに来てくれたの?」
私は、彼の魂が遠い涅槃の國からわざわざ逢いに来てくれた事が、嬉しくて嬉しくてたまりません。
彼はゆっくりとこちらに歩み寄ると、まるでオーガンジーの布を纏うようにふわりと私を抱きしめました。懐かしい高志のぬくもり、息遣い。私はそれらをハッキリと感じ取る事が出来ました。
レースのカーテンを揺らして窓から入って来る風が、かすかな海の匂いを連れて来ます。風は西から吹いていたのでしょう。
「高志、寂しいよ……私、ひとりでどうしたらいいのかわからない……」
私は泣きながら訴えました。彼はそんな私の頬を両手で優しくはさむと、唇にそっとキスをして、あらためて私の体をきつく抱きしめました。その唇からは、かすかに消毒薬の匂いがしましたが、すぐに潮の香りにかき消されてしまいました。
そして彼は、そのまま私を抱いたのです。私は彼を受け入れました。昔のように。日々、愛し合っていたあの頃のように。もちろん怖いなんて気持ちは全くありませんでした。ただただ、高志が来てくれた事が嬉しくて、懐かしくて、愛おしくてたまらなかったのです。
次の日の朝、目が覚めると彼の姿も彼の気配も消えていました。窓から差し込む朝の光はどこまでも清浄で、私はとても哀しい気持ちになりました。あれは、私の寂しい心が見せた幻だったのでしょうか。
両親や友人達は皆「気持ちはわかるけれど、いつまでも悲しんでばかりいては魂が成仏できなくなってしまうよ」と、私を諭します。私は、それでもいいと思いました。成仏できなければ高志は、いつまでも私のそばにいてくれる……そう思ったのです。
高志が再び私に逢いに来てくれたのは、やはり前回と同じ雨の夜の事でした。彼はそうするのが当り前のように自然に、そして優しく私を抱いてくれました。
その後も、高志は西風の吹く雨の夜には必ず私の所に来てくれるようになりました。私達はつかの間の逢瀬の時を惜しむかのように、ただ切なく激しくお互いを求め合うばかりでした。
幸せでした。もしかしたら自分は、夢を見ているのではないかと思うこともありましたが、そんな事はたいした問題ではありません。夢でも良かったのです。そして私は夢の続きを渇望し、高志に逢える雨の夜を待ちわびるようになって行ったのです。
そんなある日の事です。私は何人かの友人達に誘われて外出しました。まともに外に出るのは、本当に久しぶりの事でした。
私は友人達に、どこか見知らぬマンションの一室に連れて行かれました。そこには怪し気な黒いマントのような服に身を包んだ長い髪の女が、むせ返るお香の薫りの中に座っていました。その後ろには、何か祭壇のようなものが置かれ不思議な威圧感を放っています。嫌な予感がしました。
長い髪の女は、いきなり私の体に塩を振り掛けると、呪文のような意味不明の言葉を唱えながら手に持った数珠を振り回しました。
「ちょ、ちょっと、やめて!何するんですか!?」
私は女の動きを制すると、精一杯の拒絶の意志を込めて睨み付けました。一緒にいた友人達は、部屋の隅に並んで座り、心配そうな顔をして事の成りゆきを見守っているだけで誰も助けようとはしてくれません。
昔、テレビで見た除霊の風景を思い出しました。そう、これはまさしく除霊の儀式そのものです。友人達は示し合わせて、私と高志の仲を引き裂こうとしたのです。なんてひどい事を!!私は怒りで全身がわなわなと震えだしました。
そのまま私は力の限り女を突き飛ばすと、友人達が必死で止めるのも聞かずに部屋の外に飛び出しました。そして一気に非常階段を駆け降りると、無我夢中で自分の部屋を目指したのです。
そんな事があってから私はますます外出しなくなり、誰かと口をきくのも億劫で電話の線も切ってしまいました。「また騙されたら……」と思うと、もう友人達も信用出来ません。
それ以来、雨が降っても高志は来てくれなくなりました。潮の香りを含んだ風はただカーテンをゆらゆらと踊らせるだけで、彼の魂を運んで来てはくれないのです。私はきっと彼を怒らせてしまったんだろうと思い、どうしたらいいのかわからないまま自分を責め続けました。
私の腕から流れ出る血が、バスタブに張られた水を真っ赤に染め上げて行きます。私は決めたのです。彼が来てくれないのなら、私の方から彼に逢いに行こうと。
朦朧としてゆく意識の中で、母が私の名前を呼ぶ声が聞こえて来ました。友人達の声も聞こえます。誰かが玄関のドアをドンドン叩いて……ああ、うるさい。よりによってこんな大事な時に。どうして皆、私を静かに眠らせてはくれないのでしょう?
開け放した部屋の窓から、雨の気配と強い潮の香りがバスルームまで流れ込んで来ました。そしてその中のかすかな消毒薬の匂いが私の前髪をそっと揺らしました。彼が、高志が私を迎えに来てくれたのです。
「高志……やっと来てくれたのね。待ってたの……ずっと」
高志は私の頭を優しく撫でると、これ以上無いくらいにニッコリと微笑みました。本当に嬉しそうに。今までは気配だけで高志の姿は見る事が出来なかったのに、何故か今日は生前と変わらない高志の姿が見えたのです。
高志はそっと私の手を取り、ふたりでゆっくりと窓辺へと向かいました。外はまだ霧のような雨が、音も無く降り続いています。
早く行かなければ。ぐずぐずしていたら玄関のドアが開いて、また冷たい現実に引き戻されてしまう。私の魂は、血の匂いが充満したバスルームに横たわる体からまだ完全に切り離されてはいないのです。
ああ、たまらなく眠くなって来ました。瞼が重たい。高志の手が少し強く私の腕を引き寄せます。眠い……。
そして私はまた夢を見るのです。長い長い終わりの無い夢の続きを。