第2回6000字小説バトル Entry10
初めて命をもぎ取ったのは、保育園に入ったときだったような気がする。それ以降は覚えていないのだ。だが、保育園でのあの出来事は今も強烈に覚えていた。興味本位で、蟻の行列を足で踏みにじった。なぜか列を作ってきちんと歩いているところをみて、無性に壊したくなったのだ。手で潰す、なんてまめなことはせずに一撃でしかもたくさん蟻を殺せそうな方法を選んだ。靴が汚れるなんて考えもせずに、小さな蟻を踏みしかも地面に擦り付けるようにぐりぐりとなじった。潰され死んだたくさんの蟻を見ることよりも、行列が崩れたことに満足感を覚えた。
私はこの時のことを思い出すだけで、子供の残酷さが怖くなった。命など問題ではなく、ただ自分の興味の示すところを徹底的に弄る。すべての子供がそうだとは思わないが、少なくとも私はそういう子供だった。
小学校に上がってからは、そんなことはなかった気がする。そのころ私は男でありながらも虫を潰すことに気持ち悪さを感じ、呪いとか化けて出るのではないのだろうかとそんなことを考えていたからだ。もちろん、犬や猫などに危害を加える気も毛頭なかった。それどころか、怪我をした犬や猫を家に持ち帰ったぐらいだ。親に怒られつつも、私は決してそのことをやめる気はなかった。そのとき私は命を助けるという思いよりも根っからの動物好きで愛しいと思う気持ちの方が強かったような気がする。
中三の時、私が受験の時だ。私は普通に一般試験を受けたのだが、小学校の同じだった男の子が推薦を受けた。そのとき聞いた噂では、面接の時「命とはどのようなものだと思いますか」と問いかけられたという。彼の答えは「大切な物だと思います」だったような気がする。とにかく、それを聞いたとき私は友人と共に笑ってしまったものだ。その質問に対しても笑いが漏れたが、彼の答えも陳腐なものだと思ったのだ。
その頃から私は命は大切などというたった一つの言葉では語りきれないものだと思っていたからだ。もっと答えようがあるだろうと思ったが、今はもしその時自分が同じ問いを投げかけられたら彼が言った言葉以外の答えを出せるだろうかと考えてしまう。きっと口べたな私のことだから上手く答えられないだろう。それにその時の彼の答えは適切であったと言っていいと今は思う。
なぜ私が今こんなことを思い出し始めたのかというと、それは数週間前にさかのぼる。数週間前に事故であっけなく亡くなってしまった私の父。交通事故で亡くなったとは言っても直接の原因は心臓病を患っていた私の父が薬を飲むことを忘れていたことにあったのだが、母は父をはねた車の運転手を攻めた。そうしたい気持ちは分からなくなかった。父とは折り合いの悪かった私であったが、それなりに衝撃を受けていたのだから。
そして、今目の前で安らかに眠っている母ももう長くはないらしい。私は父よりも母の方が早く亡くなるだろうと思っていた。まさかあの頑固な父が、殺しても死にそうになかったあの父が亡くなるとは思っていなかった。もう少しかまってやればよかったと今更ながら後悔の念が私を襲った。
「母さん、今日は天気がいいね」
答えないと分かってはいても、私は母に話しかけることをやめなかった。父が亡くなり、そして数日後父の体を火葬したその日に母は言葉さえ話さなくなった。元々弱ってはいたが、父の死が拍車をかけたのだろうと医者は言った。精神的にも生きることが辛くなり、母は死ぬ準備を始めたのだ。私を置き去りにして死ぬことを選んだのだと私は悟った。だから、せめて彼女が何の気兼ねなく父の元へと逝けるように私は精一杯のことをしようと誓ったのだ。
私は窓を開け放った。風は生ぬるくもわっとしていたが冷房のないここの部屋の空気を一掃してくれた。真夏の日差しが私の目を直撃する。白い雲も視界の中に入ってきて使い古された例えだが綿菓子のようだと思った。青い空。雲があることで空に表情がつくのが分かる。雲のない空ほど寂しい気持ちになるものはない。今日はそうでなくてよかった。父が死んでからというもの、面会時間になると毎朝母の病室に来て空気を入れ換えるのが私の日課となっていた。母は何も話はしない。だが、生きていてくれるだけで十分だ。
そろそろ仕事に戻らなくては。
作家という収入は不安定だが時間に余裕の持てる仕事をしている私。この頃は母につきっきりで全く仕事がはかどらなかったため、仕事が溜まりに溜まっていた。締め切りが危ういものさえもある。私は名残惜しげに窓から離れると、病室の扉へと向かった。
一度、振り返る。
目覚める様子のない母。白いベッドに横たわり、風にはためくカーテンがまるで彼女の翼のように見えた。今すぐ飛び立ってしまうのではないかという錯覚に捕らわれる。
そんなはずはない。
私は自分に言い聞かせるとドアを開けた。ドアがなぜか重く感じ、足を上げるのさえ気怠かった。
母が亡くなってしまったら私は一人になる。私は三十後半の三十六歳でありながら未だ妻も子もなく、両親には本当に心配をかけた。だが、その両親も……。
私は病院から出た。朝とはいえ夏の日差しは強い。そう思い駐車場を横切った。
朝のため駐車場に置いてある車は数えられる……三台だ。病院に比例してそんなに広くはない駐車場だが、三台というのは珍しかった。
そう思いつつ私は道路へと出た。私の今住んでいる家とこの病院はそれほど離れた位置にあるわけではない。なので、私はこの暑い中いつも徒歩で通っていた。おかげで年中部屋に閉じこもるような仕事をしているにもかかわらず、私の肌は健康的に焼けていた。元々そんなに白いほうではないので、焼けるのには時間がかからなかった。
この母のいる病院はまるで森の中に取り残されてしまったかのような場所にある。木々に囲まれ、涼しいといったら炎天下の中よりも日陰があり涼しいのだが、蝉の鳴き声が耳についた。今、私の歩いている道も周りは木ばかりで、一キロメートルぐらい曲がり角もなく続いている。私はいつもここを歩きながら空想に耽る。ここは考え事をしながら歩くのには丁度よい道だ。道から外れない限り、横から車が来て跳ね飛ばされるということがないのだから。
そんなことを考えていた矢先。ふと道の真ん中にある黒い点が目についた。ゴミ、だろうか?
そう思いながら近づいていくと、その黒い点がだんだんとはっきりしてくる。目の悪い私にも見えるぐらいに。
それは蝉の死骸だった。
この木にとまっていたのだろうか? 私は蝉の死骸に一番近いヒョロリとした木を見てそう思った。蝉は黒々とした肥えた体を丸め、仰向けになって死んでいた。蝉はほかの虫に比べたら大きい方なので目についたのだと思う。それに、いつもは気にもしない虫の死骸に気をとられたのは……やはり父の死が原因か。
地上に出てから一週間ほどしか生きることの出来ない蝉。彼らの命が燃え尽きるのはとても早い。そう、人間である私にとっては。そこまで考えてから私は蝉の死骸から意識的に目をそらした。ジメジメとした暑さを思い出したかのように額の汗をぬぐった。
いろんなことに感化されて感傷的になるのは私の悪い癖だ。それが例え父の死に影響されたことであっても、だ。生ぬるい、気持ちを落ち着かなくさせるような風を全身に受けながら私は歩き出した。蝉の死骸など振り返ることもなく。
長い長い一本線の道を抜け、やっと住宅街に入った。平日、それに十時という時間が重なってか、出歩いている人間はいなかった。いつもの曲がり角を曲がり広い道へと出る。自分の住んでいる家も見え始めた。だが私は一気に家へと向かおうとはせず、子供たちに幽霊屋敷と呼ばれているほど荒れ果ててしまっている一つの家の庭へと入った。持ち主がいたら不法侵入で捕まってしまうかもしれない。もう何年も手入れをしていない庭は伸びきった雑草でいっぱいだった。膝までもあるその雑草をかき分け進んでいくと黄土色の何かが視界に入った。それは二匹の犬だった。犬は母犬と子犬で、二匹は私を見つけると側に寄ってくる。餌をくれる人の顔が分かるのだろう。
「ほら」
私はポケットの中からビニール袋に包まれたパンを取りだした。そして、地面に置いてやると母犬がそれを食べ始めた。子犬はまだ食べられないのだ。
私は子犬を抱き上げる。黒い双眸が私をきょとんと見つめていた。
暖かい。
子犬の体温。生きている、命の証。
私は子犬に向かって微笑んだ。
昔、自分は命とは炎だと思っていた。よく昔話などで寿命は蝋燭の炎が消えるまで、と読んだことがあったせいかもしれない。そして、同時に思い浮かぶのが心臓だ。だが、命と心臓は何か少し違う気がする。
私はそこまで考えてから、足に当たる毛の感触に気付いた。どうやら食べきったらしい。子犬を放し、私はその場を後にする。今度こそ本当に帰るために歩き出した。
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そしてそれから数日後のある日このことだ。その日は雨が降っていた。朝から降り続くその雨のせいで私は今日初めて毎日母の病室に行くという日課を怠った。私は車を持っていない。傘を差し行ってもいいのだが、ある雑誌に載せる短編の締め切りが近く担当の人からの電話を受け私は今日一日仕事に没頭しようと決めたのだ。そして、もうかれこれ三時間弱パソコンの前に座り原稿を打っていた。さすがに肩も張りずっと座りっぱなしで尻も痛くなってくる。目も疲れた。それに、そろそろ昼時だ。そう思って私は立ち上がった。
ピリリリリ……。けたたましく鳴り響く電話の音。私はつい最近コードレスに変えたばかりの電話機を見た。また、担当からだろう。口うるさく何度も電話をかけてくる担当に少々疲れを感じながら私は受話器を取った。「もしもし」と典型的な言葉を使った。
「あ、斉藤さんのところでしょうか?」
「はい」
違った。私は聞き覚えのない女の声にセールスか何かかと疑いを持った。電話の相手が慌てたように言う。
「私、山内外科病院の者です」
母のいる病院の名前。それを聞いた途端、不吉な考えが頭をよぎった。まさか……。
そして、次の瞬間その電話相手が言った言葉により、私はその不吉な考えが現実となったことを知る。
母の容体の悪化、そして私にすぐ来てほしいという電話だった。私はすぐさま電話を切ると、玄関へと行き適当に靴を履き傘を手に取った。家に鍵をかけることも煩わしく外へ飛び出すと走り出した。あまり激しい雨ではないとはいえ走れば傘など差していても意味がない。走るのは久しぶりなのですぐに息が切れ苦しくなった。だが、止まらなかった。否、止まれなかった。止まってしまったら嫌なことばかり考えてしまいそうで、怖かったのだ。
嫌だ、頼むから死なないでくれ!
大の男が情けない気もしたが、私は子供のようにそう思い続けた。それ以外の言葉が、見つからなかった。ただ走り、願い、ぎゅっと唇を噛み締めた。服が雨によって濡れていく。水たまりを踏みつけ靴と靴下が濡れた。だが、気にしている余裕なんかない。息が切れ、酸欠のため気持ち悪くなってくる。私は母が気兼ねなく父の元へと逝けるように、と思ったことさえ忘れていた。ただ、生きてほしいと思った。命の灯火が消えることのないようにと。
顔に打ち付けられる雨がまるで涙のようにほほを伝った。いや、私は泣いていたのかもしれない。頭のどこかでこの頃母の様子がおかしいと気付いていた。いつも医者に言われ続けてきた言葉が頭の中をかすめて去っていた。
『今度、容体が悪化したら助かる見込みは……』
苦虫を噛み潰したかのような、言いにくそうに私に言った医者の顔が頭に浮かんでは消える。
私は走り続けた。強く噛み締めていた下唇に小さな痛みが走り口の中に錆の味が広がった。雨も激しさを増してきたように感じられた。木々の合間から病院が見えた。後少しだ。
病院の駐車場に飛び込むと、私は一気に駐車場を横切り病院へと向かう。
そして、病院の中に入った。傘を放り雨で濡れた服を気にもせずに受付に飛び込んだ。看護婦が驚いたように私を見た。幸いなことに今日は受付待ちの人がいなかった。
「どうなさったん……」
「斉藤 静恵の……!」
息も絶え絶えに私は声を絞り出した。看護婦の方はそれで分かったらしく、私にタオルを渡すと緊急手術室前まで案内してくれた。酸欠で頭がぼうっとなっている。息が切れていて、だが走るのをやめたせいで冷静に考えられるようになってきた。まだ、母は死ぬと決まったわけではない。親切な看護婦にもらったタオルで病院側の迷惑にならないように頭や服を拭く。
「ここです」
看護婦の言葉に私は顔を上げた。赤い、手術中という文字が書かれたプレートが光っていた。私は肩の力を抜き、近くにあった椅子へと腰掛けた。両手を握りまるで祈るかのように額にそれを当てた。
「平気、ですか?」
「……はい、すいません。みっともないところを見せてしまって」
「いえ、平気です。お母様のこと、大切になさっているんですね」
「たった一人の肉親ですから」
「……あの、失礼ですがご結婚は……」
「してませんよ」
「そうですか」
その看護婦の言葉を最後に会話がとぎれ、重苦しい沈黙が私たちの間に流れる。時間の進みが、まるで亀の歩みのようにゆっくりに感じた。一秒、一分が遅い。
そして、会話らしい会話もないまま三十分が過ぎた。
……プレートの光が消えた。音もなく開いた手術室の扉。出てきたのは医者だけだった。私はきっとすがるような目をしていたことだろう。医者が俯いて言った。
「ご臨終です」
私は現実から逃げるように、その言葉を拒否するかのように医者の言葉を最後まで聞かず病院から飛び出した。
終わった。私はそう思った。傘も病院に忘れてきてしまった。だが今は頭を冷やしたい気分なのだ。雨に濡れ、私はとぼとぼと歩いていた。うつろな瞳で、私は道路にあるものを発見する。
血。犬の死体。
私は目を見開いた。あれは、あの幽霊屋敷の……。
私は考えるより先に、幽霊屋敷へと向かって走り出していた。
頼む……。
祈った。これ以上ないというぐらい。
雨に濡れた雑草を過かき分けた。手に走る痛みに草で皮膚を切ったことを知るが気にしていられなかった。
「頼む!」
キュウン。私の声に反応して、子犬が草の中から顔を出した。私は安堵と嬉しさで瞳に涙をため子犬を抱きかかえ草の上に膝をつくと、大声で泣いた。自分の腕の中にいる命の暖かさに安心した。
雨はさらに、激しさを増していた……。