第2回6000字小説バトル Entry9
「たまにゃいいんじゃないの?」
夫は軽く言った。子供も小学生にもなればあまり手もかからない。私は一人旅に行きたいと申し出たのだ。もともと一人旅などしたことはなかったが、どうしても一つ確かめておきたい事があって、私は家を後にした。
荷物はさほど多くはない、一人旅というものの勝手がわからないので、いざとなれば買って済まそうと思いできるだけ身軽にしたかった。
身軽にしたかったのは荷物だけではなく心もそうなのかもしれない。
御世辞にもいい夫と言うには欠けすぎた主人と、もはやかわいいだけの時期を通り過ぎた息子がその夫に似ている事に気づけば、そこから脱出したくもなる。
そんな疲れが、20年も前の約束を呼び覚ましたのかも知れない。
約束。
それはあまりにも幼く、無邪気なものだった。ただ、きっと初めて愛したという事に舞い上がってしまったのだろう、それゆえに記憶に残ってしまったのか、
私は彼が言い出した言葉を頭の中でゆっくりと反芻した。
「どんなことがあっても、10年後にこの場所で会おう。」
彼とは高校卒業とともに別れてしまった。父の転勤で遠く離れたこの都会へと移り住んだ私には彼との距離に耐えることができなかったのだ。
そう、約束は10年どころか、もう20年を経ている。だからその場所に赴く事にはなんの意味もない。ただ、自分が現実から逃避して甘い記憶に身を浸したい、それだけの甘えで列車に乗ったのだ。
気が付くと列車は随分遠くまで来ていた。
選んだ季節を誤った事に気づいた。
列車のドアが開くとそこは都会より季節が一つ先に進んでいた。身軽にした事を少し恨みながら駅の地下街へと足を進めた。かつて通い慣れたはずの駅。なのに、何一つ思い出せない。
記憶がすっぽり抜け落ちたかのような妙な感覚。まるで異次元に迷い込んだかのような気分が襲う。
一人旅にこんな場所を選んだことの後悔が冷静という感情を失わせていた。そう、記憶が欠落したわけではない、駅が大幅な改装をしたのだ。駅自体が地上二階へと移り、駅ビルまで全改装されている。これでは記憶と照らし合わせようがない。だが、空気の匂いだけは昔とかわっていなかった。だから時が進んでいないような気がしたのだ。
多少の狼狽はあるが、とにかく今は何か上に着るものが欲しい。地下街もかつての安っぽいデパートの偽物のような景色から一変して、まるで銀座の高級店を連れてきたようなブティックが並んでいた。
どうしてここまで変えなければならなかったのか。たかが駅が老朽化し、それを建て替えただけの事実を妙な気分に絡みつけて考えている自分の感情がおかしくて、重かった気分が少し軽くなった。
いつもなら絶対に選ばない色、真黄色に近い山吹色のカーディガンを、変貌した偽物のデパートの跡地にすました顔で建っているブティックでそんな時代の事など知りもしないような若く無愛想な店員から受け取った。いちいち細かい部分にすべて理屈をつけている自分が、やはりこんな場所にくるべきではなかったのだと、また憂鬱が頭をもたげていることに気付いた。
「まるで病気ね。」
胸の中で呟いた。
そう。20年も前の恋を思い出して、胸がときめいている自分を冷静に捉える事が恐くて、そう思いこみたかった。ただ自分にそう言い訳しているだけで、実際はなんの意味もないと知りながら。
カーディガンを羽織るとガラス張りになった窓から街が見下ろせる喫茶店に陣取って、紅茶を頼んだ。ダージリン、オレンジ・ペコ、セイロン・・・。たかが紅茶だったメニューが、いつしか茶葉の名を連ね、コーヒーカップに注がれて出てきたはずの紅茶は、ティーポットにティーコゼーをかけられてマイセン気取りの茶器とともにお目見えした。
こんな事にいちいち苛立つのは、ここは田舎だと思いこんでいたかったからだと、そして、自分の知らぬ土地なら時は永遠に止まっているものだという至って身勝手な思想の結論だと、二口目を口に運んで気が付いた。
列車を降りて冷えた身体は、狂い咲きにも似たカーディガンとご立派になった紅茶で暖まった。そこでようやく、冷静さを取り戻そうとしていた。
ティーポットから2杯目のお茶をカップに注いで、そのカップが空になるころ、ようやく自分のおかれている状況が、冷静に考えるといかにばかばかしいか、ということに気づいた。
ただ、慢性の疲労から脱出願望が芽生え、そこから一人旅をしたくなった。
だが旅をして行くあてもないので、高校卒業まで住んでいた街に来ただけ。ということだ。
なんとも陳腐な理由だが、ならば他人に話さなければいいだけの事だ。高校時代の友達は居るだろうが会うこともないだろうし、父の転勤で住み、父の転勤でまた離れた通りすがりの街だから親戚が居るわけでもない。誰とすれ違っても私は異邦人を気取っていられるだろう。
そう決めつけると20年前の約束をどうすればいいものか、自分の中で納得できないなら、いっそカタをつけてしまえという気分になった。整理してしまえば訳もない。いっそジョークにできるだけのイベントにしてしまおう。
結婚して常識という事を妻として母として振る舞わねばならなかった女は、妙なコンプレックスを昇華させてただお茶目な女子高生時代の自分に戻りつつあった。
決して似合いもしない色のカーディガンのせいだけではないようだった。
ローカル線に乗り換えて30分、かつて通った高校の駅にたどり着くと、時間は間もなく夕暮れが始まる頃になっていた。駅から20分ほど歩けば、約束を交わした公園がある。海を見下ろして、海風がおだやかに吹く公園だった。ちょうど高校に在学中の時に完成して、ベンチも噴水もなにもかもぴかぴかだった。傾斜を切り崩して作ったゲートボール場では毎日のように老人達がゲートボールに興じていた。
記憶の糸をすこしずつ太くしながらかつての道をなぞって歩く。
まっさらで、限りなく黄色に近い山吹色のカーディガンがセーラー服を着ていた頃の妙なはずかしさを思い出させて、それが妙に心地よく、そして公園までの道のりを闊歩し、身体も暖まっていたせいか、なんだかとても楽しい気分になってきた。
足がはずむ。
そして、公園へと向かう裏道を上る。
彼と学校からこの公園と来て、駅へ向かう道の逆をすすむ。
少しばかり、胸を躍らせて、裏道を上る。
少し上って、妙な事に気づいた。
あの頃あれほど綺麗に整備されていた花壇に雑草がぼうぼうと生えているの
だ。
何か違う。
少しばかり浮かれていた気分に翳りがおちた。
息を飲んで、裏道を上りきる。
海が見える…はずだった景色にはびっしりとマンションが建ち並んでいた。
そして、公園は荒れ地になっていた。
ゲートボール場は、草が生い茂り、人が集っている気配などまるでない。
学校からの公園の入口の道は塞がれてマンションの裏手になっていた。
そう、ここはマンションの分譲で公園へ入る道が途切れ、放棄された公園になってしまっていたのだ。
かつて、腰をかけて、日が暮れるまで語り合っていたベンチも、半壊してい
る。
落胆した気分にはあまりに似合ったベンチだった。
手で砂埃を払って、腰をかける。
本当なら、ここからまっすぐ夕日が見えて、それが海へ沈むまで見届けられるはずだった。
今は凪の海さえも吹かず・・・。
ただ、コンクリートの壁に遮られた裏手の影の場所になりさがっている。
腰をかけて、俯いた途端にぼろぼろと涙がこぼれた。
せつないとか、やるせないとか、そんな言葉では形容できない、言い様のない虚しさが胸を鷲掴みにしているようだ。
ぼろぼろと大粒の涙がこぼれていく。
声もなく、ただただ、泣いていた。
裏切られたとか、変貌したとか、そんな事はどうでもよかった。
もはや理屈などどうでもよく、ただ、無心に涙を流し続けた。
10年間の裏切りと、20年間の心残りに、区切りをどこかでつけたいと思っていた。
だが、それは、もっと鮮烈な傷となって、いま刻み込まれている。
気がつけば、嗚咽を上げて泣いていた。
悲しいけれども、どこか気分がいいようにも感じた。
36年生きてきて、おそらく人生の折り返し地点で、
これほど涙を流せるとは思わなかった。
泣いて、泣いて、泣き続けて、そして、大きく深呼吸した。
すると、なんだか、妙にすっきりしてしまった。
足下を見るとずいぶん泣いたらしく、涙の跡がくっきりと残っていた。
ひび割れたコンクリートのブロックが黒くなって染みになっている。
隙間から草が生えているそのブロックを目で追った。
ぼんやりと、ひとつひとつ。
目で追った先にを見上げると、草の中に公園の案内図らしき看板があることに気づいた。
スプレーのペンキでいたずら書きをしてある。
誰もいないのに、泣いてしまった気恥ずかしさで、なんとなく、看板の落書きを読んでみようと立ち上がった。
看板に近づく。泣きつかれてぼんやりした視界の中に、文字がはっきり見えてきた。
大きく「がんばれ」と書いてある。
いたずら書きにしては、気の利いた文句だと、素直に思って、小さな文字に目を凝らした。
再び息づいたはずの呼吸が、また、ぴたりと止まった。
鼓動さえも道連れにして、止まったと思うほどに。
半拍おいて、涸れ果てたはずの涙が、また、
もう涸れるほど、涸れているほど、泣いたはずなのに、
また、ぼろぼろと涙が溢れ出てきた。
さっきより、何倍も、何十倍も、壊れた蛇口みたいに涙が溢れ出てきた。
立っていられなくなって、膝をついて、看板の鉄柱にしがみついて叫ぶように泣いていた。
失った物の大きさと、失った時間の長さを知って、私はただただ泣いた。
泣くことしかできず、わんわんと声を出して、ひたすら泣いた。
泣いてどうすることができるなら、どうにかなるくらい、
生まれたての赤子のように、無心に、ただ泣いていた。
小さな文字には、
20年前のその彼の名前と
10年前の約束の日付が記されていた。
日が暮れていく、泣いている中で、微かに、本当に微かに、海風が吹いた気がした。
そして、彼の声が聞こえたような気がした。
「がんばれ」
と。