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第2回6000字小説バトル Entry7

植木鉢

 歩いている、歩いている。わかることは自分がただ歩いているということだけ。行き先もなければ目的もない。それは歩くなどという普遍的な言葉さえ高尚なものに転化させるくらいに退屈で空虚な作業だった。すぐに作業に飽きて立ち尽くし、目を閉じた。
 そこは大きな草原だった。 草はなびいていた、だが何故だろう風が頬を撫でることはなかった。 不思議に思ったけれど、思考を廻らせる前に目にうつるものがあった。花だ。植木鉢に綺麗な花が咲いていたのだ。 なんとなくその花に懐かしさを感じて、手を伸ばす。
ポッ 
ひんやりした感覚に少し驚いた。植木鉢には土と花が消えて、波紋が広がる水面があるだけだった。 水面は透き通り、赤い光を洩らしていた。見覚えがある光だった。とても優しくて、暖かい色の光だった。

_今日も夕日はまぶしかった。万年床から起き上がって、夕焼けの空を見上げた。この景色だけは何度みても飽きることがない。 赤く染まった空を覆おうとする暗い青・・ まぁすぐに暗い青が全てを包み込んで夜になるのは解っているのだが、、 赤を応援したくなるのが男心というものだ。 そんなことを考えて、散っていく赤い花を眺めていると 後ろから声がした。
「相変わらず、早起きなのね。」 いつものように俺は振り返ることもしない。
「はぁ・・全く・・」 いつものように呆れたような安心したような溜息を吐き、 いつもの椅子に腰掛けて万年床の上で呆けている俺を見ている。
「暇なやつだな。」
「あんたほどじゃないわよ。」
「それもそうだ。」
「へぇ・・今日はやけに素直なのね。」
「なんか・・そういう気分なんだよ。今日は。」
「そう・・。」 しばらく二人でもう殆ど沈んだ夕日をみつめていた。
「沈んじゃったね。」
「ああ。そうだな。」 そういったやりとりが日常だった。 夕暮れ時に起きてあいつが来て暗くなるまで夕日を眺める。今日のように変な夢を見ることもあるが、それは誤差の範囲内というやつで納得した。
 あしたもきっと。_
 
 俺はその日記帳を閉じた。 日付はあの日の前日で止まっていた。 そう。目が覚めたあの日。

 起き上がると、そこは知らない場所だった。 椅子に、知らない誰かが座っていて、窓を眺めていた。 彼女は言った。
「やっと起きたのね・・このねぼすけ」 心臓が一拍大きく打った。 体中の血が一瞬沸いたような感覚の後、 不思議と落ち着いていた。 何か、起こるべくして起こったような気がして仕方がなかったのだ。 俺は 俺は・・
「俺は・・・誰だ・・・」 そう呟いた時、一瞬見せた彼女の顔を忘れたことはない。 まるで死刑判決を言い渡す裁判官のような、いや むしろボタンを押す直前の死刑執行人のような気分だった。
「俺は、一体誰なんですか・・?」 重たい一言だった。 彼女の顔を見ればすぐに俺とは親しい間柄であることはわかったし、 そのことが記憶喪失になったということを確信させる根拠でもあった。 しかし、彼女にとってこの事実は俺の考えていることよりも重すぎることであることは明らかだった。 彼女は放心したような目でこっちを見て、急に涙を流し、泣き出してしまった。 何故か俺も涙を流さずにはいられなくなり、年甲斐もなく大泣きしたことを覚えている。

あれから、もう一年がたった。 不思議と、大学の講義の内容は覚えていたので復学にさして時間はかからなかったし、 大学に入ったばかりだった当時は友達は少なかったようで、特に大きな問題はなかった。資産家だった両親はもう5年前に二人とも他界していたらしいが、俺には他人にしか思えなかったので一度も墓に行ったことはない。正直、記憶を失ったことにも俺は悲しさもなにも抱いていなかった。

「日記、読んでたんだ・・」 急に後ろで声がした。いつものように初めて会った日に座っていた椅子に腰掛けて俺の顔を見る。
「カーテン開けますか?」
「それ、何回目かわかってるの?」 微笑みながら彼女はそう答えた。 俺は彼女の知っている俺じゃない。昔の俺は彼女のことは好きだったのだろうか。俺は彼女のことが好きになっていた。そして、昔の俺に密かに嫉妬していた。 日記を読んでいたのは昔の俺に少しでも近づいて、彼女が、「今の俺」を見てくれるようになって欲しかったからだ。
 
 あの日から、窓のカーテンは閉めたままだ。 彼女はいつもの椅子に座って、いつも閉まったカーテンを眺めていた。 俺はカーテンを開けたくて仕方がなかったが、 彼女のあの顔を思い出すと、開けることができなかった。彼女は昔の俺の話はしようとしなかった。前に聞いた時は急に暗い顔をしてうつむいてしまったし、それからは聞いていない。ただ彼女はこの部屋で俺とあのカーテンを眺めさせて欲しいというだけだったようだ。
「暗くなりましたね・・・・家まで送りましょうか?」
「あんたがそんなこと言うの初めてね。いつもは帰る時何も言わないくせに・・」
「俺だってたまには気が向くこともありますよ・・」
「へぇ・・じゃあお願いするわ。二度とないかもしれないしね。」 そう言って彼女は立ち上がり、コートを羽織った。 俺はというと、いつものジーンズにトレーナーを着た地味な服装に少しためらったが、 すぐに思い直して彼女の後を追った。 まだそれほど遅い時間ではなかったのだが、 冬の住宅街は静かで、まるで夜中のような不思議な雰囲気だった。
「あの日のこと、覚えてる?」
「ああ、勿論。言わば俺が生まれた日ですから。」
「そしてあの人が死んだ日なのね・・」 その言葉が胸の中で何度も響いた。 あの人が死んだ日。
「死んだわけじゃないですよ。以前の俺も今の俺も俺であることは違いありません。」 彼女は顔を少ししかめた。 俺はそんな彼女の態度が気に入らなかった。 失ってしまったものは仕方がないじゃないか。俺にどうしろって言うんだ。俺だって、記憶が戻ればそれに越したことはないって思ってるさ。「あなたじゃない。」 急に強い口調で彼女が喋った。 「あの人はあなたじゃないの。記憶が無くなったって言うことは、死んだのと同じなのよ!」
アノヒトハモウシンダノ
俺はその場に立ち尽くした。 この一年間彼女の見てきたものは、俺じゃなくてカーテンの向こうの夕日と、昔の俺なのだ。 解ってはいたがやはりショックだった。 走り去る彼女を追うことはもはやできなかった。
「振られたってことかな。」そう呟くと、どっと悲しさが溢れ出した。

 この一年間は俺にとって本当はとてもつらいものだったのだ。彼女を意識するようになったのはいつからだろう。最初はただなんとなく、泣かせてしまったこともあって彼女が部屋に来るのを許していただけだった。そのうち彼女も飽きるだろうし記憶が戻ればそれはそれでいいことだった。でも、いつのまにか…彼女が来るのを楽しみにしている自分が居た。昔の俺の日記帳を見つけたのはそれからすぐだった。あまり面白くない日記だった。でもそれは彼女が何をしに俺の部屋に来ていたのかという疑問に答えうるものだったので、一応前言撤回しておこう。

 その次の日俺は彼女にこう言った。
「カーテン、開けませんか?」彼女は急にうつむいて、
「ごめんなさい。」とだけ言った。

 その一言が意味するのが何か俺はわかっていたつもりだったのに、何故こんなに…悲しいのだろう。

 それから、彼女が部屋に来ることはなくなった。

今、静かな部屋で思う。

何のために生まれてきたのか・・ 何のために生きていくのか・・ 一体何故記憶を失ったのだろう。そんなことばかり考える毎日が続き、俺は少しやつれていた。そんな時、日記帳に一つ目を引く表現を見つけた。
『今日は昨日じゃない。考えるという行為が記憶を元にしている限り、それは後ろ向きでしかない。スカイダイビングみたいなもんなんだよな。考えることって。』
「記憶を元にして考える、スカイ・・ダイビング・・。」なんとなく、本当になんとなくだけど、わかった気がした。
「そう、だよな。」 考えていても仕方ないんだ。自分が遅れながらでも、この世に生まれたことを感謝して、このまま歩む以外にできることなんてないんだから・・・そう思いなおし、カーテンを開けた。 一年間封印されていた窓は埃が溜まっていて少し咳こんだが、明るい光が飛び込んできたのには驚いた。
「もう・・朝だったのか・・・」ふと窓際を見ると、小さな植木鉢が置いてあった。 長い間置いてあったらしく、植わっていたであろう花ももう枯れて、 なにかの花だったとしか解らないほどに茶色にすすけていた。 俺はただなんとなく、そこに水を注いだ。 枯れてしまった花が蘇るわけはなく、すすけた茶色の土が潤っただけだった。

 それから3ヶ月がたった。 彼女とはあの日以来会っていない。 勿論彼女がどこに住んでいるかなんて覚えていなかったし、 送っていったときも途中までだったので連絡は向こうからしかとることができないのだから、当たり前といえば当たり前だ。 講義がない日はいつも夕方に起きて、 夕日を眺めて暮らしている。 邪魔なカーテンはもう捨ててしまった。 俺はいつものように、何も植わっていない植木鉢に水をやり、夕日が沈むまで、呆けることにした。 いつか、植木鉢に花が咲いて、後ろから声が聞こえることをただ願って。


 あの日私はあの人を失った。 あの言葉を思い出すたびに、今でも悲しい気持ちになる。 でも、あなたは誰ですか?と聞かなかったあたり、 彼らしい冷静な一言だったと思う。 次の瞬間、私の目から瀬木を切ったかのように、涙が流れた。 目の前が何も見えなくなって、ただ泣いた。 彼もそんな私を見て、泣いていた。 まるで、生まれたばかりの赤ちゃんのように・・。

 私は彼の部屋に行くことをやめなかった。 いつか記憶を取り戻してくれるかもしれない。 いつものように「暇なやつだな」って声をかけてくれるかもしれない。 そんな、淡い期待を胸に、あの部屋に相変わらず通っていた。その日、彼は日記帳を読んでいた。
 
_暇な毎日だからこそ、変わり栄えのない同じような毎日だからこそ
_日記をつけて、後でニヤニヤしたいんだよ。
 
そんなあの人の懐かしいセリフを思い出した。それからだ。彼が私にカーテンを空けてはどうかと言うようになったのは。 私にとって本当はとても嬉しい申し出だったのだけれど、私の中にあるあの人との夕日が彼と夕日を眺めることを拒んだ。彼は少し残念な顔をしていたけど、私は見ない振りをした。

あの人が「死んで」からもう一年がたった。私はまだ彼の部屋に通っていた。何故かと訊かれれば惰性と答えるしかない。ただ思い出に浸っていたかったというだけかもしれない。実際彼も私が通うことを快く受け入れてくれたし、何故まだ通っているのかというよりも通うのをやめる理由がみつからなかっただけかもしれない。あの人と同じ顔をした彼のことは好きだったけど、彼の丁寧な話し方があの人とは違う彼という存在を浮き彫りにして、その気持ちを覆していた。

 ある日、彼は私を家まで送りたいと言った。 あの人は決して言わなかったセリフだった。
_「たまには送ってくれてもいいんじゃないの?」
_「・・そこまで暇じゃない。」
_「そう言うと思ったわよ。」
_「・・・また今度気が向いたときに送っていてやるよ。」
_「ふふっ。何優しい男気取ってんのよ馬鹿。」
 そんなやりとりを思い出す。 そういえば・・結局一度も送ってくれなかったな・・・ 私はそう思って、彼の申し出を受けることにした。
 私は、彼と会うのをやめた方がいいのだろうか・・。
『もし記憶が戻ったら』 その思いも段々空しい物に変わりつつあることを私はわかっていた。夜の住宅街を歩きながらそんなことを考えていた私はふと彼に問いかけた。  
「あの日のこと・・覚えてる?」 彼はその日を自分の生まれた日と表現し、あの人が死んだ日と言った私に「俺も昔の俺も同じ俺」と言った。私はとても腹が立った。自分のことさえ何も思い出せないような情けない男に何がわかるというのだろう。 そして残酷な言葉を吐いた。 私はいたたまれなくなって家まで走り出してしまった。 彼は・・・その場に立ち尽くしていた。

 それから私はずっと記憶というものについて考えていた。何も覚えていない彼は、記憶がなくても俺は俺なんだって言った。マンガみたいに記憶が簡単に戻るならいいが、あの一年間その気配は全然なかった。その事実を前にして俺は俺だなんてどうして言えるんだろう。彼のそんな無神経さに腹が立って、何度も何度も目覚まし時計の時刻設定をするためのねじをジリジリ言わせながら回し続けた。指が痛くなってそのことにまた腹の立った私は、目覚ましを壁に投げつけてそのまま不貞寝を決め込むことにした。

ジリリリリ!

 いつものように唐突に鳴り出す目覚ましの音。でも今日の唐突さは明らかにいつも以上だった。時計は深夜ラジオを聴くには調度いい時間だった。自業自得なのはわかっているが、理屈じゃ納得できないのが女心というものだ。目が覚めた私は顔を洗い、ベッドに腰掛けてラジオのスイッチを入れた。ラジオから聞き覚えのある歌が流れ出した。高校受験のとき、よく聴いた歌だった。ちょっと懐かしくなって目頭が熱くなって、当時のクラスメイトの顔を思い出した。
 
 その時、私ははっとなった。彼のことだ。彼にはこんな懐かしさを感じることができるのだろうか、と。彼にある記憶といえば、私があの部屋に通っていた時のことだけ。彼は私をみて何を思っただろう。彼はあの人に戻ろうと必死だったのかもしれない。少しでもあの人に近づこうとしていたのかもしれない。私があの人の亡霊を追うことは彼の一年を浪費させてしまったのではないだろうか。何も思い出せないという不安の中でもがきながら、彼は何を思っただろう。彼は見ず知らずの私が、昔の彼とどういう関係であったのかを知ろうとしてくれた。 なのに、私は彼をフィルターに、カーテンの向こうの夕日ばかりずっと眺めていたのだ。 彼の気持ちも考えずにあんな残酷な言葉を吐いてしまった。 彼は、記憶を失うという一種の”死”を体験しながら私が、あの人から離れられないのを暖かく見守っていてくれていたと言うのに。

 彼は、私のことをどう思っただろうか…。
 
 朝焼けの光を受けながら私は起き上がった。
「結局眠れなかったな。」
あの日本当は、私達は何も失ってなかった。だから…ね。


「相変わらず、早起きなのね。」
「相変わらず、暇な人ですね。」
「あんたほどじゃないわよ」
「夕日、綺麗ですか?」
「いつもと同じよ。」
「そうですか。まぁそうですね。」
「ねぇ、話したいことがあるの。」
「奇遇ですね・・俺もだよ。」


 今、俺たちができることは、目の前にある植木鉢に、種を植えることだけなのだから。

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