第8回中高生3000字小説バトル Entry2
死者を見送る心持にしても、彼のそれはあまりに殺伐に過ぎていた。その惨憺たる心中は、現世の淵から垣間見た死者を迎える世をそのまま反映させているようでもあった。
或いは彼には、彼自身の生ける肉に喰らいつき貪らんとする闇が視えていたのかもしれない。
彼が血の通わない凍えた頬に指を触れた瞬間から、貪欲なそれは彼をも自身に埋めようとしたのかもしれなかった。
――どうして。
進歩の無い疑問は胸に澱み、彼を鬱へと追い詰める。
進歩が無くても無意味な問いであるわけではない。それだから答えを求めて彼は呻き続けるのだ。
――どうして。
空回りするだけとは知りながら、尚も彼は自問する。
あれからずっと変わらぬ問いを。
あれからずっと変わらぬ記憶の傷跡に。
――どうして、あいつが死ななければならなかった?
自分がこうして生きていながら――と、彼は口惜しきにも似た感情で呟き続ける。
――このまま、一体どうして生きて行けというのだろう……。
彼は一人暮らしの殺風景な部屋を見回した。
――この空間を、永遠に守り続けろというのか。この沈黙を、一生保ち続けろというのか。
人を愛するも愛さぬも彼の勝手である。だが、彼は自ら望んで孤独を選んだ。それが耐え難いものとは知りながら、それでも未来永劫この次元から切り離され、永久に時間の中に閉ざされた人に比べれば軽いものだと思う。
彼は別に、亡き人に固執しているつもりは無い。
ただ、失った人の存在の大きさが身に迫り、今は動きようが無いだけだ。
友人が亡くなったのは数日前のこと。
――まだ、信じられない。
儀礼的な弔いを済ませてみても、およそ悲しみなどという感情が湧き上がって来はしない。
悲しむには、あまりに――あまりに衝撃が大きすぎた。
一瞬のうちに感情そのものを通り越して、虚無が襲い掛かる。
隙だらけの心に、死の幻はそっと滑り込む……。
生きる価値とは何だろう。
唐突に、いつか友人に語りかけた言葉を思い出す。
その時はまだ、こんなことになるなんて夢にも思わなかった――
『馬鹿。考えるだけ無駄さ』
友人は言葉こそふざけていたが、口調は真剣そのものだった。
『お前はいいな。無駄を考えるほどの余裕があって。こっちは仕事仕事で、 それも生きるためで、いつの間にか刷り込まれちまったみたいだ』
彼には友人の言う意味が、よく掴めなかった。
確かに自分は親の資財を食い潰すばかりで、暇である。だが、考える意味の無いことではない。仕事で疲れたといっている友人に、『疲れるなら、やめてみれば』と思ったことがある。疑問なんて、精神の解れた所からいくらでも糸口を見つけることができるのだ。解れるに任せておいて、それをしない友人の方が怠慢であるような気さえした。
疲労を素直に受け止め、単に日々を消化してゆくだけの人々の蠢動を、彼は初めて馬鹿らしいと感じた。
……あの時友人を労ってやれず意見ばかりしていた自分を、彼は愚かしいと思った。
今までこんな気持ちになったことはない。自暴自棄にだけは走るまいと思っていたのに、友人との時間を思い返せば後悔ばかりが過ぎる。
生きるって、何だろう?……そんなことはどうでもいい。
――友人にとって、生きるとは、どんな歓びだったのか。
それが知りたくなっても、もう遅い。
つらつらと物を思う内、彼は急に喉の渇きを覚えた。
友人が死して、自分が生理的欲求を覚えるという現実。
生きているんだ、と思う――凄まじく暗澹たる痛みが頭に響く。
生きること――
彼はそれを、詰め込むことであると常々感じていた。
生まれてから、白紙の状態から、欲求を知り感情を覚え表情を学び知識を付け――計り知れない。
勿論、生きただけの時間も記憶となって蓄積される。
新しい時間を積む度、古い時間は褪せてゆく――
悲しくともそれが当然であることは否めない。
こうしているうちにも時間は流れるのだ。彼は胸に手を置く。鼓動が小気味良く打ち続ける。
鼓動とは嘲笑であろうか――こうして鬱の内にいたずらに時間を見送った身にとって。
生きているんだよ、と。人生をどんなに否定しても逆らっても、俺が打ち続ける限り、あんたは確かに生きているんだよ、と。思い煩い、疎ましくなる思いも、俺が打ち続けるから生まれて来るんだ。全ての根源は、間断なく脈打つ俺にある。
あんたが煩うものは、俗世をいくら探しても見つからないもの。
袂の、もっと奥を探っても転がり出ては来ないもの。
……自己を嫌悪する自分に嫌気が差して、一時的に「俗世」なんて言葉を使って逃げているだけではないか。
――友人の死に触発されたとはいえ、何故こんなことを思うのだろう。
だんだん苦しくなってくる。
生そのものが厭わしく思えてくる。
……死を理解していない故に死に憧憬を募らせるのを好いこととは言わない。だが、それをいうなら死を解する者などいるわけが無い。
つまりは誰に咎められることでもない。
彼は別に、死にたくなったわけではない。
だが、以前には死を恐怖と感じる心が無かった。それだけ、彼は取り立てて死が生に勝る可能性などに思考の探りも介入させなかった。
今は怖い。
殺風景な部屋に訪れて来る者が無くなったことが怖い。
このまま孤独に生きてゆこうとは思うが、誰にも会えなくなったら怖い、と思う。
身勝手な話だ。だが、生死の歴然とした差は何よりそこにあるのではないか。
生なら、孤独も身勝手のうちで済ませられる。
死は束縛だ。
だが、死に臆病になることは、それだけ死への意識が芽生えてきているということに他ならない。これが何かのきっかけで転じ、どう変化をきたすのか、ありようによっては死を甘く想う日もいつか必ず来るだろう。
いつかのままでいられなくなった事が、何より彼の恐怖だった――自分が解らない。
彼は家を抜け出した。このままでは確実に息が詰まる。
考えをどこかで散らしてきたい。
当ても無く足に任せてうろついて、ふと彼は道端のダンボールに気付いた。――何だろう?
遠目でも分かった。中に蠢く、真っ黒な物体。
生き物でも捨てたのだろうか?
ひょいと覗き込むと、案の定そこには黒い毛並みの子猫がうずくまって震えていた。
彼は腕を差し伸べ、黒い子猫を掌ですっぽり包み込んだ。弾力のある皮膚と確かな温かみが、抵抗も無く掌中に収まる。
彼はやや荒っぽく子猫を抱き上げた。
子猫は依然として声も上げず、爪も立てない。衰弱しきっているのだろうか。
――この子猫……放っておいたら確実に死ぬかな。
彼はふっとそう思い、子猫の顔を眺めた。子猫は決して目を合わせようとはしなかった。
体にはもう力が入らないのか、それでも意志だけは人間に身を許すまいとしているように。
捨てられて、死ぬ間際で、でも媚を売らない……。
死というものを、この子猫は知っているのだろうか。
――……。
彼はそっと、子猫をダンボールに戻した。
生きるとはなんて、考えるだけ無駄なこと。
友人の言葉がはっきり蘇った。
生がどうでもいいなら、死を意識もすまい。
だが、生死の意味は、そのものの対極からはまた離れたところにはあるまいか。
投げやりに死ぬのも、妥協して生きるのも嫌なら。
どうすればいい?
彼はそのままその場を立ち去った。