第8回中高生3000字小説バトル Entry5
「お前に、明日の朝までオレの時間を預ける」
ハルは目を見開いて、相手を凝視した。
たった今ここで人生初の奇跡が起こったばかりだというのに、もう一度それが起ころうとしている。
目の前にいるこの男は、常ならば金の短髪に、切れ長の鋭い瞳が透かし見えるサングラスを装着してブラウン管の中にいる。
髪を黒く染めて、瞳の見えない濃いサングラスをしているとしても、その際立った風貌は隠しようがない。
日がとっぷりと暮れてしまった予備校の帰り道、混雑した駅前の通りで二の腕を掴まれた時には息が止まるかと本気で心配になった。
最初に目に入ったのは浅黒く日焼けした形のよい鎖骨と、その上に乗った、不似合いなほど華奢なシルバーのネックレス。
そのシャネルのオープンハートは、彼が18歳の時に母親から贈られた物だということは、ファンの間では周知の事実である。
おそるおそる後頭部をカクッと逸らせば、形の良い唇が薄い笑みを浮かべていた。
「タカオミさん…?」
信じられないことだったが、「嘘」とは言わない。
中学の時から6年、彼の熱烈なファンを続けてきた。
その自分が、彼を間違うことだけは絶対にないと信じている。
「どうして…」
震える声で尋ねたハルを見て、タカオミはフッと微笑んだ。
彼のトレードマークとも言える、皮肉混じりの微笑。
頭の芯が蕩けるような甘い眩暈を覚え、膝の裏の力が抜けそうになる。
「これ」
彼の長い脚を包んだレザーパンツのポケットから、花柄の封筒が差し出された。
その封筒を、ハルは嫌というほど知っている。その微妙な膨らみの正体が、10枚に及ぶ便箋と、数十枚の中から厳選した一枚の写真だということも。
「お前と一度会ってみたかった」
何度見たかわからない夢の中のタカオミでさえ、そんなことを言ってくれたことはない。
ただ呆然と立ち尽くすハルを面白そうに見下ろしていたタカオミが、ふと腰を落として囁きかけたのが冒頭の言葉である。
ハルはアレグロの速さで8ビートを刻み続けている鼓動を抑える為に、一度ぎゅっと目を瞑ると、大きく深呼吸を繰り返した。それからゆっくりと目を開けて、目の前の男を見つめ返し、そして言った。
至極マジメな顔をして。
「映画、見に行きましょう?」
タカオミが、どうして都心から程遠いこの寂びれた街にいるのかはわかっている。
明日の夜、街のホールで行われるライブのチケットをハルも持っているからだ。
スタッフやマネージャーの目を盗んでやって来たので、明日までホテルに帰ることはできないという。
今をときめくカリスマヴォーカリストと言っても、ハルの厳格な父親が男に敷居を跨がせるとは思えない。
そこでハルが選んだのが、映画館だ。
制服のポケットを裏返せば、期限が辛うじて残っているファーストフード店のクーポンが見つかった。
二人で紙袋を抱え込んで、オールナイトのチケットを持って古びた映画館に入場する。
背景が限りなく暗いフランス映画は、ハルにとっては子守り歌だ。
どれほど左隣に神経を集中させていようとも、緊張の糸はふっつりと切れる瞬間は訪れる。
ハンバーガーを片手に舟を漕ぎ始めたハルの頭が、電気ショックを受けた時のようにビクッと仰向いた。
薄闇に目を凝らせば、肘掛においていた自分の手の上にクロムハーツのリングを嵌めた手が指を辿るようにして重ねられている。
「居眠り禁止」
それがもたらす効果を知ってか知らずか、わざわざハルの方へ腰を浮かせて囁き掛ける。
それからハルの元には、ただの一度も眠りの妖精が訪れなかった。
その後は、アクションものが続いて、最後にハリウッドの人気俳優のアメリカン・ラブストーリーが上映された。
ハルとタカオミのほかには人気のない客席に、切なげなピアノとハルが鼻水を啜る音が響く。
スクリーンには出演者の名前が延々と流れ続けていた。
「泣き虫ハル」
「だって、あんなラスト…やり切れないんだも……」
ぐしっとハンカチで鼻を押さえながら答えたハルは、再びうっと喉を詰まらせた。
「泣くな」
テレビやラジオではついぞ聴いたことのない優しげな声で、まるで小さい子どもを諭すように言うタカオミを、ハルは涙の滲んだ瞳で見遣った。
しかしそこには、スクリーンを反射したレンズがあるだけだ。
ハルの大好きな、野生の豹か何かを思わせる鋭い瞳が和んでいるさまを見ることはできない。
「歌う時しかサングラス外さないのは、プライベートも一緒?」
つい口をついて出た言葉に、タカオミが一瞬表情を凍りつかせたのがわかった。
しかし、すぐに何もなかったように唇が例の微笑を形作る。
「今でも詩、書いてるのか?」
ハルの顔中に笑みがぱっと広がった。
ハルが小さい頃から詩を書いているというのは、ファンレターに書いたことだ。
「受験だからあんまり書けないけど、でもなるべく書くようにしてる」
タカオミは満足そうに鼻を鳴らすと、ハルの手を上から強く握った。
「いつかオレの曲に詞つけろよ」
涙の筋を幾つも作りながら、ハルはくしゃくしゃと微笑んだ。
それを見たタカオミは、どこか寂しげに笑みを返した。
「また会える?」
ようやっと目覚めを迎える街では、スズメが陽気にさえずっていた。
不安げに呟いたハルを、タカオミは不意に抱き寄せ、まるで視線を避けるように肩に顔を埋めた。
「知ってるか?」
何を、とハルが尋ねる前に軽く唇が触れ合う。
「ネバーランドじゃ、信じないと空を飛べない」
唇を離したその位置で呟いたタカオミは吐息だけで笑ってみせた。
「…信じれば会えるってこと?」
無言で、まるでハルの姿を目に焼き付けるように見つめた後、タカオミはさっと身を翻して人ごみに紛れた。
ハルはその背中を見送りながら、朝日を反射したサングラスから透かし見えた瞳の理由を、いつまでもそこに佇んで考え続けた。
「実はオレ、結婚します」
客席から怒号のような悲鳴がどっと溢れた。
十曲歌い続けた後のMCだからなのか、タカオミの声は上擦っている。
いつものシャープな印象とは違い、そのサングラスの奥の瞳は幸せそうに微笑んでいた。
「相手は女優の…」
ハルはアンコールを待たずに、席を立った。
出口からホールを抜けると、広場の中央にあるオブジェにもたれかかった。
「期待してたわけじゃないよ。だって、あたし信じてたもん」
オブジェに這わせた手に、背後から伸びた手が優しく絡む。
「何を?」
耳元で囁きかける声は、昨夜よりも幾らか不安げな色をおびているようだ。
「あたしが昨日会った人、絶対タカオミじゃないって」
「……タカオミは、オレの兄貴だ。お前の手紙は、オレが勝手に兄貴の事務所から持ち出した。最初は興味があっただけだ。あんなに綺麗な詩をどんな奴が書くのか……。でも、お前に会って、気が変わった。もっとお前と話してみたいと……。」
そう言った後に、くしゃりと前髪を掴んだ。照れた時のクセらしい。
「一つ教えてくれ。なんでタカオミじゃないとわかった?」
ハルは、「だってタカオミは一重なんだよ。あなたみたいにきれいな二重じゃない」と言おうとして、ちょっと逡巡した後に、言葉を変えることにした。
「キスの、仕方かな?」
6年越しのファンといえど、そんなことは知らない。
そんなことより、さっさと名前を教えて欲しいなと思いながら、ハルはゆっくりと降ってきたキスを、笑みの形の唇で受け取った。